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アゴタ・クリストフ「悪童日記」
先日、ガブリエル・ガルシア=マルケス「族長の秋」を紹介しましたが、続けてアゴタ・クリストフ「悪童日記」を紹介します。
全くタイプの異なる小説ですが、「一人称複数形」が効果的に用いられた希有な作品、という点で共通項があります。
「悪童日記」は、戦時下に生きる双子の男の子を描いた作品です。
形式面で特徴的なのは、小学生でもすらすら読めるような平易な文章で書かれていること。そして、語りの手法です。
本作は、双子の男の子が日々の出来事をノートに記録する、という体裁で書かれた一人称小説です。
それも、「ぼく」でなく「ぼくら」という複数形が用いられている点が、面白いところです。
元々、一人称小説とは、語り手の主観を語るのに適したスタイルです。
一人称小説の主人公の多くは、自身の内心を雄弁に語ります。
ところが、「悪童日記」の「ぼくら」は全く主観を語りません。
ノートには、「ぼくら」の異常な日常が淡々と綴られているだけです。
本作の肝は、この文体と語りの手法にあると思います。
平易な文章。「ぼくら」という特異な語り手。一人称であるにもかかわらず主観を排していること。
このような形式を採用し、装飾を完全に削ぎ落としたことで、本作は独特な世界観を構築することに成功したのだと思います。
双子の置かれた状況は実に深刻ですが、「ぼくら」の言動には一本芯が通っています。
「ぼくら」の言動は徹底して偽善・欺瞞を排します。
「ぼくら」の言動は、読者に大きな印象を残しますが、それも文体と語りの手法があってこそだと思います。
結末も秀逸です。
最終章表題の「別離」は、てっきり「おとうさん」との別離かと思いきや、そうではありません。
「ぼくら」自身の別離だったのです。
ここに至って、「ぼくら」という主語がどれ程効果的だったか、よく分かる仕掛けとなっています。
「悪童日記」は、それ一作のみでも完成された素晴らしい作品なのですが、実は「ふたりの証拠」「第三の嘘」という続編があります。
そして、驚くべきことに、「悪童日記」を読了した時と三部作を読了した時とで、読者に見える景色はまるで異なったものとなるのです。
私は、「悪童日記」を読み終えた時も衝撃を受けましたが、「ふたりの証拠」から「第三の嘘」まで読み終えた時、心の底から衝撃を受けました。
ということで、三部作としての「悪童日記」については、また改めてご紹介したいと思います。