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ガブリエル・ガルシア=マルケス「族長の秋」

「『百年の孤独』を読まれたかたは引き続きこの『族長の秋』もお読みいただきたいものである。いや。読むべきである。読まねばならぬ。読みなさい。読め。」

筒井康隆が「百年の孤独」の次に読むことを強要しているのが、「族長の秋」です。
「族長の秋」は、独裁者の横暴と孤独が描かれた、実に濃厚な小説です。
ただでさえ濃厚な「百年の孤独」をさらに濃縮すれば、「族長の秋」になる。そんなイメージでしょうか。

本作の特徴の一つは、段落の組み替えや改行がないまま、ページ一杯を文字が埋め尽くしている点にあります。
それを可能にしたのが、突然の場面転換や語り手(視点)の転換など、バルガス=リョサが「緑の家」「ラ・カテドラルでの対話」などで用いたのと似た手法を採用したことです(筒井康隆「虚航船団」第3章でも同様の手法が用いられています)。

もちろんマルケスは超一流の作家です。
どこで場面転換しているのかを意識しながら読めば、きちんと理解出来るように書かれています。
この勘所を掴み、独特のリズムに慣れてくれば、しめたものです。
「百年の孤独」をも凌駕するハチャメチャなエピソードの数々と、その中から浮かび上がってくる大統領の孤独に、頁を繰る手が止まらなくなるはずです。

語り手の転換も、本作の肝の一つです。
大統領の孤独を描くためには、大統領による一人称でも、側近による一人称でも、神の視点による三人称でも駄目だったのでしょう。
多角的な視点を確保すること。そして、「われわれ」という一般大衆による複数一人称の語りを採用すること。
それでなければ、大統領の孤独を十全に描ききれなかったのだと思います。

ところで、「百年の孤独」「族長の秋」を読むと、私は夏目漱石「吾輩は猫である」を思い起こします。
とんでもなく面白いギャグ(エピソード)が切れ目なく連発されること。
その中から、悲哀なり皮肉なりが自然と浮かび上がってくること。
その意味で、マルケスの諸作は「吾輩は猫である」と同系列に属する小説だと思います。

「族長の秋」は、余りの濃厚さ、ハチャメチャさに、「百年の孤独」以上に読み手を選ぶ小説ではあります。
それでも、「百年の孤独」を読んだ方は、必ずや「族長の秋」も読まなければなりません。
筒井康隆が言う通り、私も、「族長の秋」にこそマルケスの精髄が詰まっていると思います。

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