「十人十色」(2023年)のお話③
こんにちは、志高塾です。
またまたお待たせいたしました。
「十人十色」のスピーチ第3弾を再録します!西宮北口校に通う生徒のお母様にして頂いたお話です。
何年か後、きっと今より成長しているであろう彼に、お母様のこのスピーチをぜひ読んでほしいです。
「十人十色」のお話③
息子はエスカレーター式の小学校に在籍しており、大学までの一貫校でしたので、元々外部受験は考えておりませんでした。1年生の頃、学校のアフタースクールで始めた囲碁にはまり、3年生から本格的にやりたいと、囲碁道場に通い始めました。厳しい世界なのでやめたほうがいいと言ってはいたのですが、プロ棋士を目指したいと言い出し、そこからは土日祝日はほとんど朝10時から夜9時まで囲碁道場に通い、平日も詰碁というパターン問題みたいなものを100も200もやるという生活を頑張っておりました。
しかし、5年生の秋に、急に「囲碁を辞めたい、打つのがつらい」と言い出しまして、本人もこういう理由があって、というのが分からないと言っていました。厳しい世界で院生になってプロになる方っていうのは、小学校に全然行っていない方もいらっしゃったりしますが、その中でも、うちは絶対小学校は通いなさいと言い続けていたので、かといって天才肌でもないというのも本人に自覚があったと思うので、囲碁にどっぷり浸かるということがつらくなってしまったみたいでした。それで、教室に通うこともやめてましたが、今度は野球をしたいと言い出しまして、5年生になってから野球教室に通うことになりました。通っていた小学校の中等部には野球部がなかったので、外部受験をして野球部のある中学校に行きたいと言い出しました。
しかしながら、家族の中ではそれまで受験をするつもりがなかったため、志望校や勉強法など、どういうかたちで受験に臨めばよいかイメージはできませんでした。そこで、1年生の頃から国語でお世話になっている松蔭先生に、小学校5年生の冬から受験で、どのレベルの学校まで目指せるのか、どういったスケジュールで進めていくのか相談に乗って頂きました。そこで、六甲学院を志望校として挙げて頂き、そのレベルを目指して受験勉強をスタートすることになりました。
1年間の受験ではありましたが、焦ったり、いらいらしたり、調子に乗ったりが、外に出やすい息子だったため、振り返ると、苦労やご迷惑をかけたことが多かったように思います。最初に大変だったのは、受験を決めて塾の回数がぐっと増えた5年生の冬でした。5年生の時は学校の課題も多く、塾と宿題の両立がうまくいかず、学校の宿題が未提出になったりで、学校の先生にも叱られたりしておりました。そこにコロナで神経質になっていることも重なり、本人もいらいらが爆発し、学校へ行くことをいやがり、友だちに八つ当たりをして呼び出されたりしたこともありました。家でもきれやすく、お酢のびんを持たせただけでも手がくさくなったと怒ったりして大変でした。
6年にあがると、学校の宿題との両立はできるようになったのですが、学校の授業や先生に違和感を覚え始め、学校生活はまだしんどい様子でした。また、塾の授業はずっと楽しいと言っておりましたが、5月か6月に初めて進学塾の模試を受けたところ、自分が期待していたような成績がとれず、私に当たってきたりして、家での態度は悪かったです。この時期から夏休み初めにかけて、学校の説明会にいくつか参加して、本人の行きたいと思う学校が決まりました。当時、息子はカリキュラムや校舎に魅力を感じて、高槻中学を第一志望と言っておりました。
夏休みに入ると、平日はほとんど毎日塾にお世話になっておりました。日常としては、ゲームは外出する時や、甥っ子と会う時はokとしていたのですが、中毒性があるようで、ゲームを終えた後の態度はひどく、夏休みが終わる頃から、ゲームは禁止しておりました。また、塾のお弁当のかばんをよく忘れてきたりしていたのですが、電車かどこかでなくしてしまった時には、しかったものの、「コンビニで買わせずお弁当を持たせるのが悪い」と、きれ返され、私も二度と作ってやるかと秋以降は作りませんでした。あいかわらず態度はひどかったのですが、母の言うことは聞かないのに「勉強しなさい」と言ってしまったのが悪循環だったのかなと思い、秋は促すことはしても、「勉強しなさい」とはあまり言わないようにしました。ちなみに、車のダッシュボードも蹴られすぎて開かなくなり、14,000円の修理代をお年玉で払わせました。
何かとひどい夏休みでしたが、6月に囲碁の県予選だけ参加しており、そこで県代表の枠をいただいていたので、全国大会は出たいと言いまして、8月に2泊3日で東京へ行きました。そこでは受験勉強がまったくできない3日間となってしまったのですが、5年の秋に囲碁をやめた時には、囲碁がつらくなって碁盤をさわれない状態になってしまっていたのが、その機会に、リフレッシュとして囲碁にふれられることができ、また、楽しいと思えるようだったので、この時受験より囲碁を優先させたことは、親心ながらよかったかなと思います。
そして2学期に入り、成績も上がってきて、模試でも良い判定がとれるようになりました。私ががみがみ言わなくなったのもあってか、学校生活も楽しめるようになり、精神的にも少し落ち着いてきました。ですが、10月、11月は行事が多く、その翌日は疲れきって1日何もできませんでした。勉強量が減ったこともあったためか、成績が安定せず、またいらいらしていたようで、11月に塾で、他の生徒さんにひどいことを言ってしまい、えらそうな態度をとるようになってしまいました。
塾にも大変なご迷惑をかけてしまい、主人からは「もう塾も受験もやめて公立に行け」と言われる事態がありました。息子の性格的に、こんな状態で受験をやめさせてしまっては、息子を支えようにも私が潰れてしまうと思い、また松蔭先生に相談に乗って頂きました。先生からは「今受験をやめるのは息子さんにとって何のプラスにもならない」と言って頂き、塾にも通い続けるように言ってくださりました。また、当時息子が第一志望としていたのは高槻中学だったのですが、息子のこういった性格に合っていて見て頂けるのは六甲学院と言って頂きました。主人にもそのことを伝えて、受験する学校は、前受けを全寮制の海陽学園、本命を六甲、池附の3校に絞ることで落ち着きました。
しかし、本人が行きたいと思うところを受けられなかったら一生後悔や、親に対する腹立ちが残るとも聞いたことがあったので、どうしても高槻に行きたかったら、一緒に頭を下げてお願いしに行こうかと提案しました。ですが、塾で六甲に通っているお兄さん方や、六甲出身の先生から学校のお話を聞かせて頂いたようで、本人も六甲に一番行きたいと思えるようになり、とても感謝しております。
ただ、この時期に進学塾の模試を一度だけ受けて、オールE判定という悲惨な結果が返ってきて、私も息子も落ちこんでしまいました。ですが、松蔭先生には「模試の結果はあまり気にしないでください。過去問ができるかどうかが大事で、模試は入試本番の心持ちの練習ですので」と言って頂き、振り返れば、あまり気にする必要がなかったのだと思いますし、そう言って頂いたことが、とても支えになりました。また、12月に入っても、塾は好きだけど、家では3歳の妹がいることもあって、なかなか勉強できず、12月頭には、コロナで1週間勉強が手つかずになることもあったのですが、年末からようやくスイッチが入り、年末年始は家でも自ら進んで勉強しておりました。
1年を通して、松蔭先生が進捗状況やメンタルバランスを的確に把握し、勉強スケジュールを適切に組んでくださりました。私の不安にも「お任せください」といつも寄り添って、松蔭先生と担当の小川先生が息子の良き理解者になってくださりました。息子も、年末にはパソコンの壁紙を松蔭先生の写真にしようかなと言い出すほど、先生方のことを尊敬していたことが、この受験での一番の強みだったと思います。
最後になりましたが、1年間サポートして頂きました、松蔭先生をはじめとします先生方、本当にありがとうございました。
松蔭のコメント
中学入学後、お決まりのようになっているやり取りがある。
「どう、学校楽しい?」
「めっちゃ楽しいです」
「で、誰がその学校勧めたんやっけ?」
「松蔭先生です」
学校帰りに教室に来る笑顔の彼を見るたびに、六甲を推して良かったな、となる。
もちろん、うまく行かなくなることもあるかもしれない。
その時は、勧めた者としての責任を持って、私ができる限りの対処をしてあげなくてはいけない。