知らなくてもいいかもしれない曖昧なはなし1
生命とはなにか?
I,Robot(われはロボット)などで知られるアシモフに「ものを言う石(The Talking Stone)という作品があります。タイトルどおり石がしゃべりだす、という話ですが、アシモフは石という非生物が生物(ケイ素生物)になるかもしれない、というアイデアを描き、後に日本でもこのケイ素生物というモチーフを取り入れた作品が生まれています。
いまのところ、石がしゃべるという話は聞きませんが、日本は物(もの)に霊魂が宿る、という精神文化を持っていて道具を大切に使ったあと、使えなくなったものを供養する、針供養などの伝統がありますので、非生物と生物の堺目、区別はあいまいかもしれません。ですから、ものを粗末にすると、あとで祟られます。
これは日本人がものを大事に使うというだけではなく、一神教ではない八百万の神々を信じているから、という話もよく聞きます。そしてお米にもたくさんの神様がいるようです。
私たちは身のまわりのものに親しみをもって接していますが、ものが生物であるとは考えていないでしょう。それでは、生物と非生物を区別する明確な区切りはあるでしょうか。
日常的には、生物と非生物をはっきり区別しているように思いますが、生物(生命)がどのようなものか定義することは現在もまだ大変、難しいようです。
現在のところ、生命を定義する明確な基準はなく、いえるのは生命の持つ特徴ということになるようです。
コンピューターウィルスは生命なのか?という話を聞いたことがあるかもしれません。自己複製し、機能を自分で「進化」させるAIはもう予測ではなく、手の届くところにあります。細胞膜はないですが。。。。
コンピューターウィルスが自己複製するなど、生命の特徴として挙げられている特徴を備えているようにみえる一方、ウィルスはどうでしょうか。
こうして見ると、ウィルスとコンピューターウィルスはどちらも生物とは言い難い、よく似たもののようです。
この奇妙なウィルスは人の進化にもかかわってきたようですが、未来も私たちの体内にコンピューターウィルスが共存することはない、と断言できるでしょうか?
脳はどこからどこまで?
「ドノヴァンの脳髄」も有名なSF作品です。タイトルから推測できるとおり、脳を単体で扱う話です。ひとの核となっている器官は脳ですので、脳があれば大丈夫、という感覚はまさに脳から出てくる唯脳的イメージです。
映画「チャッピー」では脳さえただの容れ物にすぎず、重要なのは脳内のデータだけ、というアイデアも一般に受け入れられてきているように感じます。
脳は身体の器官の一部ですが、この「脳」という言葉を使うとき、私たちはある偏ったイメージを持つことになります。私たちがイメージする「脳」は次のようなものでしょう。
このように「取り出された」脳が私たちのイメージする脳ですが、これは誤解を生んでいる、と養老孟司はいいます。
私たちはつねに様々な「情報」をとおして(媒介して)、周囲の出来事を「知り」ますが、そこには特定の「印象付け」もまた含まれていると思います。その印象は、実情とかなりかけ離れたものかもしれません。
いまではPCがネットワークにつながっている状態が当たり前ですが、これがもし完全にネットと切り離され、モニターもなく、キーボードなどの入力機器もないとしたら、どうしますか?そうなればハードディスクを取り出すしかないかもしれません。そして、別のPCに外付けするか、ほかのPCに移植することになるでしょう。
最後にもうひとつ本を紹介したいと思います。
心を生み出すのは内臓かもしれません。
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