モーリス・ブランショ『焰の文学』(1)語録【4481字】
モーリス・ブランショの文学評論集『焰の文学』で印象に残ったものの記録です。ただただ淡々と書いていきます。
(☆おすすめ)×5 (☆☆超おすすめ)×1 は読んでいて特に感心させられたものです。
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Ⅰ)カフカと文学 (☆おすすめ)
言語は沈黙によって実現されない。黙ることは自己表現の一つの方法ではあるが、その不当さがわれわれをまた言語のなかに投げかえすからである。さらにその上に、言語の内部で語の自殺が試みられなければならない。この自殺は語につきまとっても果たされないから、白紙のページへの誘惑か、意味を失った言葉の狂気に語を導くことになる。だがこれらの解決は幻影である。言語の残酷さは、それが自己の死を絶えず呼び起こしながらけっして死ぬことがないところからくるのである。
〈29頁〉 『カフカと文学』
Ⅱ)マラルメの神話
しかし言語の要求はこの心の動きを追い越す。それが目ざす方向は絶対の欠如であり、求めるものは沈黙なのだ。われわれにとって欠如と虚無でしかないものが、《天に輝く》か、あるいは「小曲」のなかで言われているように、
わが希望かしこに投げられしうえは
抑え難く
激怒と沈黙にわれを忘れ
天に輝かざるをえぬ
のかもしれない。
〈50頁〉 『マラルメの神話』
Ⅲ)文学における神秘
かたちのないところにかたちをつくり
ふわりとしたものに印しをつけ
意味のないものに意味を見つける
詩と文学の神秘の形態が、どんなに狂気を熱望しようとも、文学はいつも狂気めいた理性によって成立し、さらに遥かに遠くわれわれを、夜が言外の意味でしかないあの白夜に導くならば、ここに、詩そのものの中に光をみつけているのではなかろうか。
〈76頁〉 『文学の神秘』
Ⅳ)エイトレの矛盾
作家も心理学者も、言語の始まりとその根元に沈黙を置きたがる。その沈黙はあたかも失楽園のようでもあり、その郷愁がわれわれの語につきまとうのである。どれだけ多くの芸術家が、語らぬ夜に対する哀惜と予感に誘われて、それをわれわれに感得させるのを自己の使命と思っているか思い出したところで無益なことだ。そのことについては、サロイヤンがわれわれにとって有益な証人である。彼は言う《あらゆる詩句、物語、小説、随筆は、まさにあらゆる人が考えているように、われわれがまだ翻訳しなかった言語、夜のあの広大で黙した叡智、文法も規則もない永遠の用語から来る語である》と。
〈85頁〉 『エイトレの矛盾」
Ⅴ)虚構の文学
カフカは、おそらく東洋的な伝統の影響をうけて、死の不可能性の中に、人間に対する極端な呪いを認めたように思える。人間は存在から逃れられないから不幸から逃れることはできない。(……)彼の大部分の主人公たちは、生と死の間の中間的な瞬間に参与する。彼らが求めているのは死であり、彼らが惜しむのは生である。従って彼らがあらゆる希望を失う可能性の中に希望を求めるのだとすれば、彼らの希望を何と定義してよいか分からないし、彼らの惜念の情が彼らの受ける罪の宣言を永遠化するのであれば、それを何と評価してよいか分からない。
〈104頁〉 『虚構の言語』
Ⅵ)シュールレアリスムへの反省
自由でない社会のなかで自由だと主張するのは、自分からその社会の奴隷となるのを引き受けることであり、殊にその社会が自己の意図を誤魔化すために用いる自由という言葉のふざけた意味を承認することだということは分かっているから、最も解放された文学は同時に最も現実に参与しているということも分かるだろう。
〈123頁〉 『シュールレアリスムへの反省』
Ⅶ)ルネ・シャール
詩句は《永遠に動き続ける測り知れぬ闇の深淵》であり、《天使、われらの本源の関心事》であり、《生ける不可能を包む黒き色》であり、《苦悩……言葉の支配者》である。
〈130頁〉 『ルネ・シャール』
Ⅷ)ヘルダーリンの《聖なる》言葉 (☆おすすめ)
……神々の裁きは
詩人の持ち家を、
詩人はそれを打ちこわし、一ばん貴重なものを
敵とみなし、父と子を
残骸の下に埋葬する
この裁きが言語の常軌を逸した態度に対する単なる罰でないことはよくお分かりだろう。だが贖罪と言語とは同じものだ、というのは詩人は自分を打ちこわし、自分が住む自分の言語を打ちこわし、空虚そのものの中にぶら下がって、最早、前もなければ後もない。詩人は、滅亡、否認、完全な分裂、またよく言われることだが、もはや不在と悲痛でしかないのだから、実際にすべてに向かって開かれた(jedem offen)を持つ。それは詩人の言う通りである。しかしそのときこそ詩人は昼であり、昼の透明を、思考する昼(denkender Tag)を持つ。
〈164頁〉 『ヘルダーリンの《聖なる》言葉』
Ⅸ)ランボーの眠り
ランボーは、一生を通じて、労働への恐怖感、急速と睡眠への打ち勝ち難い要求を表明した。《最上のもの、それはまさに酔った眠りだ》、《焰の塒のなかにある眠り》、《純潔の眠り》、《ぼくの眠りの柩車》。作家であるかぎり、彼は書きながら、睡眠のなかで真の突破口をうまく見出すように努め、死だって物の数でなかったような昏迷のなかに、死以上に生命の終わりを保障したかもしれない虚無のなかに、逃げようと努めたと言うことができる。
〈199頁〉 『ランボーの眠り』
Ⅹ)翻訳とは……
翻訳文は、日常の言葉から、つまりわれわれがそのなかで生きそこで浸っている言葉から、別の言葉を、一見すれば同じに見えても、日常の言葉と比較すると、その不在のような言葉、永遠に獲得されたけれどもつねに隠されているそれとは違った言葉を、生み出そうとする創造の努力をあまりに安手に真似るのだ。外国の作品がわが国の作品よりも模倣を進め励ますのは、その場合の模倣の方が個性的な部分を余計に残しておいてくれるように見えるからである。
〈240頁〉 『翻訳とは……』
Ⅺ)サルトルの小説 (☆おすすめ)
小説が《テーマ》の不幸から解放されるために、《実存主義的工夫》という今流行の例の工夫の概念が小説に提供する手段を強調しなければならない。自由であることは意識的に自由であろうと努めることだという論理を持ったこの哲学教師が、明白な観念と、明確な討議と熟慮した判断に基いて、自己のドラマを演じようと一か八か激しく試みているのは明瞭である。(……)彼の生涯が目的の方に向かうのに応じて目的が存在するといった彼の生涯が目的なのだ。かかる目的は各瞬間にそこにあり、各瞬間に姿をかくす、それはつねに現実でありつねに不在である。
〈255頁〉 『サルトルの小説』
Ⅻ)ジイド、及び経験の文学について
文学は不誠実な混乱した経験であって、そこでは失敗することによって成功し、失敗することは何の意味もなく、最も偉大な慎重ささえも疑われ、誠実が喜劇になる。つまり本質的に人を欺く経験である。そしてそれが文学のあらゆる価値を作るのだ。なぜなら書く者は幻覚に陥る、しかしこの幻覚は彼を欺きながら彼をひきずり、最も曖昧な動きによって彼をひきずりながら、彼が既に見出したと思っていたものを失うか、これ以上見失うことがないものを発見するか、彼の好きなようにその機会を与えるからである。
〈284頁〉 『ジイド、及び経験の文学について』
ⅩⅢ)アドルフ、又は真実なる感情の不幸 (☆おすすめ)
焰のように満ちたりず
燃えつきるまでぼくは燃える
光はぼくが触れるもの
炭はぼくから離れるもの
確かにぼくは焰なのだ
ところでコンスタンは、ジュリエット・レカミエに言う、《ぼくは我が身を燃えつくして、あなたを照らすようにできているのです》と。
〈308頁〉 『アドルフ、又は真実なる感情の不幸』
ⅩⅣ)死後の目
われわれには死の現実を最後まで経験することができないという事実が、死を非現実的なものにする。そしてこうした非現実性のために、われわれは、非現実的にしか死なないし、本当に死ぬことはないし、生と死の間で、恐らくはわれわれのあらゆる生命がその意味と現実とを取って来る非存在と非死の状態の中で、いつまでも、捕らわれの身となっているのを恐れざるをえないのだ。
〈319頁〉 『死後の目』
ⅩⅤ)パスカルの手
もしイエス・キリストの真理が、死んでかくされた彼を想定するならば、もしその真理が闇と放棄と墓の平和の中でのみ形と生命を持つのならば、彼に《手をさしのべる》者にとっても同様であるのは尚更である。彼の平和は墓の中だけにあり、彼の教会への復帰は墓の孤独の中でのみ行われ、彼の光明への行進は彼を墓の闇に近づけるだけである。
〈339頁〉 『パスカルの手』
ⅩⅥ)ヴァレリーとファウスト
『わがファウスト』は一つの下書きである。しかし下書きとしては完全である。未完成ではあるが完成されている。一つの作品を作りあげるのに必要なすべてのものが明らかに欠けている状態のなかに、完璧さを見出そうとするのが、この作品の持つ不安定な性格なのだ。これには終わりがないが、それは終わりを持ちえないからである。作品は、各場景ごとに、各台詞ごとに、すべてを言いつくしている。したがって決定的にすべてを言いつくしたから、どの場景で止めてもどの台詞で止めても構わない。
〈361頁〉 『ヴァレリーとファウスト』
ⅩⅦ)ニーチェの方へ (☆おすすめ)
ニーチェは、造形的作品には鋭敏ではないが、デューラーの版画「騎士と死と悪魔」に対しては常に偏愛を示した。《この絵はぼくに近いが、何と言ってよいかぼくには余りよく分からない》と言っている。こうした好みの中に彼独特の選択が認められる。この選択が彼を大胆で不屈な《だがしかし》と結びつけ、あらゆる保障を拒否して「神の死」を自分の試金石とする勇敢さに結びつける。
〈375頁〉 『ニーチェの方へ』
ⅩⅧ)文学と死ぬ権利 (☆☆超おすすめ)
文学は自分自身の目的に向かって、自分を追い抜くことがないのを知っている。それは巧みに逃れて騙されない。それは消えるものを絶えず現れるようにする運動だということを知っている。それが命名するとき、それが指し示すものは抹殺されるが、抹殺されたものは保たれている。そこで物は(語という存在のなかに)威嚇よりも避難所を見出すのだ。文学が命名を拒否するとき、つまりそれが名称によって本源的な暗闇の証人である曖昧で無意義な事物を創り作るとき、消えたもの──名称の意味──は立派に破壊される。しかしその代わりに一般的な意義が、実存の暗闇の表現として語のなかに刻みこまれた無意味が浮かびあがったわけだ。したがって語としての正確な意味が消えたとしても、今やなにかしら意味する可能性が、意味を与える空虚な力が、非個人的な奇妙な光が確証される。
〈416頁〉 『文学と死ぬ権利』
以上、お付き合いありがとうございました。