鹿田、自惚れに溺れる
ついつい根も葉もないような話や、妄想話をひけらかしてしまう『鹿田のnote』だが、この多様性の時代にあって、きっとどこかの誰かにとっては最高のバイブルになっているはず。そう夢見て今日も適当に適当を極め、noteを綴る。
鹿田です、よろしくね!
さあ相も変わらず今日も今日とてネタの一つも握らずに、根拠のない自信のみを纏っては威風堂々とパソコンとにらみ合っている鹿田だ。
しかしその情けなく滑稽な程垂れ下がっている眉をみて、パソコンは毎回毎回噴き出してしまう。(電子のつばが飛び顔に付着するとしばし痺れる)だからつい僕も、最後にはいつも笑ってしまってね、甘えてあまりに気楽に接してしまう。
いつか僕も人に睨みを利かすことができるような立派なつり上げ眉毛になりたいと、心から願っているのだが、年を重ねるにつれ益々下がってきているのはもう気のせいでは済まされない。いずれ角度が垂直に達し、鼻筋の上あたりに2本の眉毛が並列してしまいやしないかと危惧している。
まあ、そんな話はさておいて閑話休題。話の筋を元に戻そう。
さてなにが元の話の筋であったか皆さんご存じだろうか。そんな慌てふためき上の空を見つめても何も浮かんではきやしないよ、かく言う僕もこの記事のメインテーマが何かなんて一つもわかっていないのだから。
いつも最後まで書いて”じゃ、タイトルはこれにしよう”と6面サイコロを2つ振ってはその出目をつなぎ合わせてタイトルにしている日々だ。
それにしては毎度毎度タイトルは変わるし、同じ語句すらほとんど無いではないかと不審に思われる方もいるかもしれないが、僕はサイコロを2つ振るとは言ったが、持っているサイコロの数が2つとはいっていない。鹿田のうまい叙述トリックにまんまと引っかかったねみんな。
ずいぶんオイルが染みわたってきた。勝手にキーボード上で動く愛しいわが指たちよ、気ままに文を書きなさいな。僕はそれを追いかけて読むことができるいつも最初の読者だ、文章エゴイストにとってこれ程の楽しいひと時はないね。いつもそう思うんだよ、いつも。
ああ、面白いどんでん返しのミステリーが読みたいな。読みたいけれど「”上質” ”どんでん返し”」と検索すれば、それが〈どんでん返し〉であることがわかってしまう。
このパラドックス!早く誰か解決しておくれ。
どんでん返しと気づかずにどんでん返しを読みたいんだ。そういう意味ではあの一冊は最高によかったな。しかしここで作品名を語ることはどんでん返しであることを読者の皆様に伝えてしまうことになるので伝えることができない口惜しや。解決した暁には誰か世界の偉い人よ、そのお人にこそ、ノーベル文学賞を与えてやってくれたまえ。
伝えたいんだよ、教えたいんだよ本当は。でも伝えたらどんでん返しであることがわかってしまうからね。それにしても最高だったなあの小説は。俗にいう”記憶を無くしてもう一度読みたい本”だ。教えられないけれど。
教えられないなら仕方ない。仕方ないから鹿田はまた別の話題に移る。
ここまで面白おかしく書いた記事はまたすべて自分のためでもある。
僕はこんなに適当に書いた文章さえ愛おしくて仕方ない、まさに文章エゴイスト的な文章エゴイストだ。鏡の代わりに記事をみてニヤけている。だからこそこのnoteとの出会いは本当に幸せだった。いつも言っているけれど僕の理想は
ー楽しく書いて、誰か一人でも笑ってくれる人がいたら最高!!ー
という単純な理屈だから。かじった程度のアドラー心理学であるが、僕は貢献という事が人生の要にあることを知った。世界に役割を持てない人生は辛い。どんな小さなことでもいい、というか貢献に関して言えば大きいとか、小さいとか、高度だとか低度だとか、そんなものは一切関係ないからね。ましてや地位や名誉なんかも。
例えば現場を永く離れた社長さんなんかがボランティアや寄付といった行動に出るのも、僕はその理由にあたるのではないかと思っている。
『人の役に立てている』
この実感が薄れた時人は焦り、また生きる意欲や標を無くしていく。
そしてまた『属す』、という感覚も同列で説明できる気がするんだよね。まあ僕は偉くなったことなどないから具体的な感覚は全く分からないけれど、偉くなれば偉くなるほど孤独にならざるを得ないというのは定説だ。ほとんどの社会のしくみはピラミット形式だからね。そして責任が重くのしかかる。少しずつそこら辺りは柔軟になってきた気はする現代だけれども。
ああ、楽しかった。鹿田は満足したよ。ここで終わるのが丁度いいか中途半端かなんて下らないことはなしにしよう。楽しかった、十分。満足満足。そして勝手気ままなこの記事を最後まで読んでくれたあなたには感謝しかありません。僕に貢献してくれてありがとう。
またね。
《追記》
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