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弁証法が答えらしく感じられてしまうという罠…(日記 2024/9/17 火)

3連休明け。昨夜またしてもちゃんと寝支度をして眠ることができず、ベッドに横にはなったものの、リビングも寝室も電気をつけたまま寝落ちしてしまった。寝る、という動作に意志によって入れない。きちんと眠れていないのがおそらく一週間近く続いている。困った。当然今日も朝はうだうだと起き、シャワーを浴びて、鈍く重い頭のまま仕事を開始した。

月5回は出社しなければならないというルールがあることを今更知った。先月は配属開始月だったので、月初に環境構築などで出社したので、そのルールをクリアしていたのだが、今月はとくに出社しなければならない日も大してないので、この条件を満たすためだけに無理に2日ほど出社しなければならない。なんというか、馬鹿げているなと思う。

仕事は思ったよりもタスクが降ってきていて若干焦った。それでもなんとか巻きで進められそうではある。少し余裕をもちたいので、今回はタスクを終わらせても迷惑がかかるまでは終わったことを申告せずにいようかと思う。

今日もスピノザ『短論文』からメモをとった。

だが四番目の人は最高に明晰な認識を持ち、伝聞も体験も必要とせず、理性の技法すらも必要としない。なぜならこの人はみずからの直観によって、比とすべての計算をただちに見てとるからである。

神、そして人間とその幸福についての短論文

上は『エチカ』でいうところの「第三種の認識」「直観知」に対応する認識について記述した箇所だ。「理性の技法すらも必要としない」とあるここを読むと、やはり「直観知」は文字通りの直観であって、國分功一郎が『スピノザ』で述べていた、「第一種の認識」=臆見と「第二種の認識」=理性による明晰判明な認識、この2つによる内的過程が「第三種の認識」であるという定義は、少なくともスピノザが意図したものではないように思う。
弁証法が答えらしく感じられてしまうという単純な罠に國分が陥っているとは思えないが。

今日の写真

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