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抗議活動のもつ「ダサいイメージ」をどうするか…(日記 2024/10/23 水)

雨の湿気で10月下旬だというのに蒸し暑くて、昼には冷房さえをつけた。地球の今後をわりと真剣に憂える。赤旗がスクープを出した、曰く石破が今回の衆院選で「非公認」にするとのたまった「裏金議員」が、公認候補者が受け取る額と同額の2000万円の資金を支給されており、実質的な公認そのものであること、また国民を騙す気満々だったということである。死んでしまえクズどもが。

さすがに与党への批判の声も増えてきてはいるものの、今回の衆院選で政権が交代するとまでは望めない。やはり野党第一党が現状存在せず投票先が分散していることが原因として大きい。立憲は弱く、ゴマスリのアホ玉木が代表をやってる国民民主党など論外である。イギリスやフランスのように日本共産党が政権をとっていいと思うが、この国の「共産党」という名前に関する公教育の刷り込みはそれを可能にするとは思えない。

またリベラルな抗議活動のもつ「ダサいイメージ」をどうするかもっと真剣に考えた方がいいだろうとは思う。もっとオシャレかつ常識的な活動にできないだろうか。デモやプラカードを掲げる等の活動は力を持つ。それは確かだが、政治を考えるきっかけと時間を奪われ続けている若者世代がそれをみて「うわ、何あれ」と拒否感を示すことが多いのも否定はできまい。彼らの多くは真剣に考えた上で与党や体制を支持しているわけではないのだから、権力への対抗勢力に与することや権力を監視することは「いい歳した人間ならあたりまえ」の「しゃん」とした姿であり、その逆はダサくかっこわるいというイメージを作りあげていくことにもっと真剣になったほうがいい。

たとえばリベラルな哲学徒なんかも、私淑する哲学者の影響でリベラルな考えを幸運にも持てているにすぎないことが多いのではないか。彼らにとってリベラルな考え方とは、哲学と同じように読み調べ学んで得たものではなく、哲学する者の「条件」として身についているフリをし始めたのが形成のきっかけであることが多いのではないか。しかし別にそれでいいのである。

正論をまじめに伝えればどうにかなるというのは、大衆に期待しすぎだ。
それが真理そのものでなくとも、あるいは間違った過程を経たとしても、真理や正しさによる結果=効果に近いものを「結果的に」手にできるのであれば、それはおおいに利用すべきだ、と考えていたのがスピノザだ。そういった広告的戦略性は必要だと思う。
そういう意味では、ちょいリベラル風なスタンスで見てくれのいい若手タレントというものの存在も案外重要なのかもしれない。しかし彼ら彼女らが「自民党には投票しない」と言うことは稀であり、せいぜい「ちゃんと考えて投票しよう」というのが関の山で、それに対して「しっかり考えて自民党に入れました」なんて返信がついていたりするのだが。

そもそも権力の監視者、批判者であることをやめて、安心が得られるわけはないのだ。安心とはたまに感じるものであって、安心し続けられる環境など存在せず、だからこそ不断の批判が必要なはずだ。

仕事はやる気出ず進まず。ちびちび洋書を読んでいる。大学受験勉強の余力で辞書さえ引けば結構読めて楽しい。続けられるだろうか。読んでいるのはジョイスの『ダブリン市民』。

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