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短編小説|特別な味わいをもう一度

口元にかたむけたカップは空になっていた。味わうでもなく飲んだコーヒーの苦味だけが舌にざらついて残っている。

「はぁ……」

マンションのベランダで男は何度目かわからないため息をもらす。

灰色のスモッグにおおわれた夜空に見える星はわずかで、真下の大通りを忙しなく行き交う車のヘッドライトに目を細める。

手元に握ったままのスマホに目を落とす。同窓会の案内の連絡だった。受信してからすでに二週間が経っている。

大学進学とともに地元を離れ、バイトで生活費を稼ぎながら大学を卒業し、社会人になってからも一度も帰省していない。五年前に開催された同窓会にも参加しなかった。

今回もあのときと同じように不参加で返信すればいいはずなのに、なぜかためらっている自分がいる。

その理由から目をそらすように彼はスマホをポケットに入れ、室内へときびすを返した。



「いかがですか?」

濃い色合いのウォールナットのカウンター越しから、若い男性がコーヒーをドリップしながらわずかに視線をあげ、こちらに声をかける。このカフェのマスターだ。

カウンター上にはコーヒーを淹れる道具であるサイフォンがいくつも並んでいる。

豆によってドリップかサイフォンか淹れ方を変えているのも、コーヒー専門店であるこの店のこだわりだ。

店内はコーヒーの香ばしいにおいが漂い、アンティーク家具を配したレトロな雰囲気はとても居心地がよい。

「おいしいです」

日曜日の午後、本屋の帰りに寄った行きつけのカフェでコーヒーカップを傾けた彼は素直にほうと息をつくように言った。

口にふくむ芳醇な味わいに集中すれば、ここ数週間悩んでいることは一瞬だけ忘れられるような気がした。

「仕入れたばかりの珍しい豆なんですが、お口に合うようでよかったです」

ほほ笑むその顔は、自分と同じ二十代に見える。

身につける白いシャツはしわひとつなく、細めの黒いネクタイを締めている。

さりげなく配したシルバーのネクタイピンには、いくつか色の異なる石が並んでいて、身動きにあわせて陽の光をやさしく反射させ、整った容姿のマスターの品のよさを引き立てている。

初対面では一瞬冷たい印象を受けもしたが、話してみると、おだやかで丁寧な口調に落ち着きのあるほほ笑みは、こちらの緊張と警戒心をほぐしてくれるものがあった。

通い慣れたいまでは、カフェの心地よい雰囲気は、このマスターがかもし出すによるものが大きいと感じるほどだ。

「ブラックチェリーやリンゴの風味が甘味をより引き立たせる味になっているんです」

味を思い浮かべるように目を細めている若いマスターの説明を聞きながら、彼はもうひと口コーヒーをすする。

「たしかに果物のジューシーな感じがしますね」

コーヒーの良し悪しなど気にしたことがなかった彼だったが、このカフェに通うようになってそのうまさがだんだんとわかるようになってきていた。

けれどこのコーヒーは味のうまさ以上に、なぜか懐かしい感じがする。

「なんていう銘柄なんですか?」

興味をそそられて訊ねる。が、マスターが答えた銘柄に、彼の指は一瞬意識を離れ、すべり落ちたカップがガチャッと音をたてる。

「あ、すみません」ハッと我に返り、慌てて手元に目を向ける。さいわいにもカップは無事で、コーヒーもこぼれてはいなかった。

「いえ」マスターはお気になさらずにというようににこりと笑う「この豆を栽培しているコーヒー農園は閉鎖してしまったんですが、苗木を譲り受けていた個人の方が数年前からほそぼそと栽培されて、それを今回少し譲っていただいたんです」

「閉鎖……」

彼はもう一度手元のカップに視線を落とす。先ほど聞いた銘柄を頭の中でつぶやく。ポツリと言葉が漏れた。

「祖父が……、この銘柄を好きで……」

マスターはやわらかくほほ笑むとうなずく。「よろしければご自宅用に持って帰られますか?」



自宅に戻った彼は先ほどカフェで買ったばかりのコーヒーをドリップして淹れる。豆を挽くミルは持っていないので、粉状に挽いてもらった。

注がれたカップの水面をのぞき込み、確かめるように味わうと、ずっと忘れていた記憶がよみがえってくるようだった。いや忘れていたわけではない。ただ思い出したくなくてふたをしていただけ。その事実をすんなり受け入れている自分に驚く。

数日前の電話越し、母親の言葉を思い出す。

これまで定期的にかかってくる電話はさりげなく帰省をうながす言葉だけだったが、今回はそれだけではなかった。

『お父さんが亡くなってからおじいちゃんは甘やかすだけの祖父役をやめて、父親役をやってくれてたの。あなたの上京を反対したのだって苦労するのが目に見えてたからよ』

祖父は、彼にとって早くに亡くなった父親の代わりでもあった。高校卒業後の進路で、彼は地元を離れてバイトしながらでも都内の大学進学を希望し、祖父は地元に残れと強く言い、お互い譲れないままケンカ別れしてしまったままだった。

もう一度コーヒーをこくりと飲む。それは祖父が特別な日に入れるコーヒーと同じ味だった。

迷いがなくなったように、彼の指は自然とスマホを操作していた。



「これお土産……」

彼は緊張ぎみに小さめの紙袋を差し出し、ちゃぶ台の上に置く。

数年ぶりに帰省した実家はどこかよそよそしく感じた。

長年積もった気まずさもすぐにとり払うことはできず、年季が入った居間に入れば、新聞を広げあぐらをかいている祖父がいた。

直視できずに彼は、すぐに視線をそらす。

紙袋に手を伸ばし、中をのぞき込んだ祖父が、わずかに息をのんだ音が聞こえる。

彼はおずおずと視線を上げる。

祖父は難しい顔をしていたが、ゆっくりと息を吐くと言った。

「コーヒーでも飲むか」

「……うん」

彼は子どものころに戻ったように素直にうなずいた。ケンカ別れしてから言葉をかわすのは数年ぶりだった。

祖父は静かに立ち上がると台所へ向かう。そのあとに彼は続く。

狭い台所のテーブルに向かい合わせに座り、丁寧に豆を挽き、ドリップする祖父の手元をじっと見つめる。

そういえばこれを眺めるのが好きだったな、と思い出す。お互い無言だったが、どんな言葉よりも語れている気がした。

「ほら」

差し出されたコーヒーカップは、深い藍色に白いしずくがまだらに入った焼き物だった。陶芸が趣味の祖父は、自作でコーヒーカップを作っていた。

そして特別な日には一番の出来のカップでとっておきのコーヒーを淹れていた。目の前にあるカップは、その一番の出来のカップだった。

祖父の手はケンカ別れしたときよりもずいぶんとしわくちゃになっていた。過ぎ去った年月を思い、彼の胸はちくりと傷んだ。

「あと、これ持っていけ」

祖父は戸棚の奥から取り出したカップを彼に差し出す。

「お前もコーヒーを飲むならいるだろう」

祖父の顔と差し出された真新しいカップを見比べる。祖父が自分のために作ってくれていたものだと気づいた。

「小さい子どもにコーヒーは飲ませられんからな。でも昔のお前は、いつもわしと同じものを飲もうとするんだ」

祖父が気まずさを隠すように言う。

「そうだったっけ」

彼も素直になれなくてとぼける。

「そうだ。でもダメだと言うと大泣きする。手のかかる子供だった」

腕を組んだまま眉間にしわを寄せる祖父は怒っているようにも見える。でもそうではないと今の彼は理解していた。言い訳しようと口を開きかけたが。

「もう大人になったんだな」
 
彼よりも先に祖父は言葉を吐く。

「……じいちゃん」
 
祖父はやや驚いたあと、しわが濃くなった口の端がゆるむのを隠すようにコーヒーをすする。

彼も久しぶりに祖父を呼んだことがどこかくすぐったくて恥ずかしくなり、自分もカップを傾ける。

口に広がる甘みのある味わいは、特別なコーヒーがより特別になったことを感じさせた。



*最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
▽⦅コーヒーを片手に味わう物語⦆をまとめたマガジンです。コーヒー片手に読める、コーヒーを絡めた物語、のぞいてみていただけるとうれしいです!


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