エチカ - スピノザ(100分 de 名著)國分功一郎
100 分 de 名著シリーズの『エチカ』を読んだのでその感想とまとめ
スピノザとデカルトの真理観の違い
スピノザ:真理と真理を理解する人との関係のみを考える。真理とは主体の変容(成長)によって得られる体験である。真理の理解を体験していない人に真理を説明することはできない。
デカルト:真理は明晰判明で公的に人を説得するもの。誰からみてもその正しさが理解される。
両者の考え方の違いを一言で言うと「真理の正当性について他人に示せるかどうか」です。
デカルト的真理観では、真理の正当性を他人に示すことができます。数学における証明問題をイメージするとわかりやすいです。
一方で、スピノザ的真理観では、真理の正当性を他人に示すことができません。真理とはそれ自体が真理の正当性を証明するものであるとしています。つまり、真理を認識することができれば「ああこれは真理だ」と自ずと理解されるということです。
真理を認識していない人にはどれだけ説明したとしてもそれが真理であると理解できません。キリンを全く知らない人に、いくらキリンの説明をしたとしてもその人がキリンを完全に理解することは不可能であると言うことです。その人はキリンに出会って初めてそれがキリンであるということを確実に理解するのです。
しっくりくるのはデカルト的な真理観だと思います。それは、デカルト的真理観は近代科学の礎となっており広く浸透しているからです。
自由とは
「自由」と聞いて真っ先に考えるのは「制約が何もない状態」を考えるのではないでしょうか。
スピノザ的な考えでは制約がない状態のことを自由とは考えません。そもそも制約がない状態などあり得ないと言う立場に立ちます。「自分が人間である」ことがすでに制約になると考えるのです。人間である以上、翼は生えないし、手足の可動域には限界があります。このように存在するだけでさまざまな制約が課せられてしまうのです。
では、スピノザはどのように「自由」を考えたのでしょうか。
スピノザは、自由とは与えられた制約条件のもとで制約条件に従って自分の力をうまく発揮できる状態のこととしています。
自由とは制約を飛び越えていくことではなく、むしろ制約の中でうまく自分の力を発揮していることだと言うのです。何でもかんでも制約を取り払っていけば自由になれるわけではないということです。
魚は水の中を自由に泳ぎます。「水の中でしか生きられない」と言う制約条件の中で自らの力を発揮しているのです。魚が"自由"に陸に上がってきたら魚は死んでしまうでしょう。
強制とは
強制とは自由の反対の概念です。
強制とはその人に与えられた必然性(制約条件)が無視され、何かを押し付けられている状態です。つまり、外部の原因によって行動や存在の仕方を決定されてしまっている状態が強制であると言えます。
親を殺された子供が犯人に復習するために生きるとき、その子供の行動の全ては復讐のためにあります。このように外部の原因によって生き方を支配されているとき「強制」の状態にあるといいます。
能動
スピノザは、能動であるとは、自らの行為において自分の力を表現する(反映させる)こととしています。単なる行為の方向ではないことに注意が必要です。
「銃で脅しくてくる相手に自分がお金を手渡す」という行為を考えてみましょう。
直感的にこれは「能動」ではないと感じるのではないでしょうか。しかし、「能動」を単に行為の方向であると考えると、行為の矢印は「自分」→「相手」となりこの行為が能動であるということになってしまうのです。
次は、スピノザの考え方を適応してみましょう。「お金を手渡す」という行為は相手の銃の脅威に怯えた結果生じています。この行為は自分の力より相手の力をより多く表現(反映)しているのです。したがってこの行為は「能動」ではありません。
意志は自由ではない
まず、自発性・自由意志は存在しません。
ここで使われる自由意志とは純粋な出発点で、何からも影響を受けていないものと考えられています。
人間は常に外部からの影響と刺激の中にあるので、そのようなものは存在し得ません。
では、なぜそのような「意志」があると感じてしまうのでしょうか。
それは、人間は行動の原因ではなく結果を強く受け取るようにできているからです。
「原因」出発点のことがよくわからないので、出発点は100%自分から生まれた自分の「意志」であると考えてしまうのです。
意志もまた、なんらかの原因によって生み出されたものなのです。原因の連鎖の最後は「神」である。
感想
一番衝撃的だったのは「意志が行為の一元的な原因ではない」と言われたとことです。自分の意志によって行動していると思っていたからです。
新しい習慣を身につけようと思って、三日坊主で終わってしまうたびに自分の意志は弱いな、なんて考えていました。けれど、意志は、無数にある行為の要因のうちの一つに過ぎないので「やろう」と言う気持ちだけでは新しい習慣を身につけることなど到底無理な話だったんだと思えば少し気持ちが楽になりそうです。
言い訳じみてしまいましたが、「意志の力」だけでは行動は決まらないということは、意志の力だけでなんとかしようとしていた自分にとってとても新鮮で新しい視点を得ることができました。