#2 【なぜ今、「思考力」が必要なのか?】
わかりやすさの背後にある「思考力」
池上彰氏といえば、誰もが知っているであろうジャーナリストである。
豊富な知識と、その説明のわかりやすさで看板番組を持つほどだ。
世の中の社会問題、政治の問題、経済の問題など我々の生活と切っては切り離せないほど重要な問題、だけれど正直とっかかりにくい問題について誰でもわかるように丁寧に解説している。
私も池上氏の番組をもちろん見たことがあるが、やはりすごくわかりやすいという印象を受けた。複雑な事象の関係性をミクロとマクロどちらの視点からも丁寧に解説していて、自分が少し頭が良くなった気にさせてくれる。
これだけ「わかりやすく」説明できることの背後にあるのは、池上氏が徹底的にその問題について「思考」していることだろう。
つまり、説明するにあたり考えているわけだ。
では「思考」とはなんだろうか?そしてどうすれば「思考力」を身につけることができるのか。
それこそがこの本のメインテーマである。
「自分」の過大評価を解く力こそが「思考力」
私がこの一冊を読み通して得た結論はこうである。すなわち
「自分が考えられる人である、知識がある人間であるという過大評価を解いて、謙虚に考えることこそが思考力である」
ということだ。
キーとなるのは、この「自己の過大評価」というポイントにある。
つまり、自分が物知りであるとか、自分は頭がいいと感じた段階で、思考力というのは失われていると言っても過言ではないということである。
この一種の「謙虚さ」が思考する上ではとても重要であるということがこの一冊を通してよくわかる。
これからいくつか筆者の主張を見ながらこの結論に至った過程を見てこう。
「自分」というものの危険性
この本の中で一貫して言われているのは最近よく聞く言葉になった「エビデンス」の重要性だ。
エビデンスというのは日本語で言えば「証拠」。つまり、ある主張や出来事の理由や原因を相手に伝えるときにその根拠となるものである。
この「根拠」が正当であるかどうかというのが大切であると筆者は重ねて主張しており、この根拠を確認する癖がなければ、XなどSNSで蔓延する「陰謀論」などに傾倒しやすくなる。
筆者はこのような出来事が起こる様子を
「人は、自分の信じる論ありきで、それに合う事実だけを組み合わせてストーリをつくってしまう、という修正を持っているのです」
と言っている。
確かにこれは身に覚えがある人も多いのではないだろうか。
こと、事実というものを見るにあたっては「自分」というフィルターは邪魔なものになりがちだ。たとえ自分の思っていることとは違ったとしても、それをしっかりと受け止めるだけの「知的な強さ」というものが求められているのだ。
プランBの存在
すでに高校を卒業している人たちならわかると思うが、高校までは「答え」が確定である問題しか扱わない。むしろその答えをとにかく早く、効率的に見つけにいくことが優秀であるとされる。(偏差値とか受験はその典型)
「つまり一つの問題に対して答えは一つ」というのが当たり前になっているのだ。しかし、実際はそんな単純な問題はないことが多い。
むしろ、この問題はそもそも正しい問題なのか?、この答えには答えがあるのか?などそもそもその問題すら疑う姿勢が問われる。
このとき大切なのはいくつかの答えを持つこと。メインのプランA以外のプランBを持つことで考えに幅がうまれ、より大局を見て考えることができる。
またこのプランBを持つことの重要性は、「別の回答を持つという精神的強さを育てる」という意味も持つ。
思い出してもらいたいが、中学や高校のテストの後、友達と集まって「この答えなんだった?」と話し、自分が周りと違った場合すごく不安な気持ちになったことがあるだろう。
この場合はテストの点という切実な問題が結びついているが、社会はそうではない。この「他人のプランを聞いたときに自分のプランが正しいのかと不安になる」という状況から抜け出して、それでも自分の主張に対して自信を持つという意味でもこのプランBを持つ、ないしは知るというのは重要だと思う。
「自分なんて」が思考を助ける
さてここまで色々と紹介したが最終的に私が感じたのは最初にも書いた通り、「自分の過大評価を解く」ことこそが思考力を高めるために最も必要であるということである。
そしてそうなるにあたり最も重要なのが、「謙虚さ」である。そしてこの謙虚さをうまく形容するのが「自分なんて」である。
この「自分なんて」ということを意識することができれば、相手の意見を聞くときに相手をただ批判するといったことや、データをバイアスまみれの目線で見ることというのも少しは防げるのではないだろうか。
また「自分なんて」と思うことで自分の知的好奇心を切らさずにいられることも大きい。自分なんてと思えることで常に自分の知らないことを知ろうと思える。
池上氏も本書の中でこういっている。
このある種の謙虚、謙遜の精神こそが我々をよりあたらしいものに駆り立ててくれているのかもしれない。
余計な「自分」は削ぎ落として
最後に自分がこの一冊を通して考えたことを少し書き残しておこうと思う。
それは「今まで自分が積み重ねたものや努力した結果を、あえて捨てることの重要性」である。
一般的には自分が過去に学んだことや、習得してきたことをその後の人生に活かしていくことは大切なことであると思われている。温故知新という言葉もあるくらいだ。
しかし、それは本当なのだろうか?
本書を読んだ感想としては、逆、つまり積極的にそれまで得てきたものを捨てていくことによって思考力というのは磨かれていくのではと思う。
この捨てる力というのはある意味では「勇気」とも言えるだろう。人間というのは自分が持っているものを手放すことに対する抵抗が半端ではない。
実際にプロスペクト理論という名前の心理学理論もあるくらいだ。(厳密にはこれは一致しないかもしれないが、そこは自分で確認してほしい)
しかし、具体例を挙げれば若者から「老害」と揶揄されている人たちというのは、基本的にこの捨てられない人たちなのだ。自分たちの成功体験を捨てられず、時代が変わった今でもそれが使えると思っている。
そしてこの捨てられないことで、新しい芽を潰してしまう、邪魔してしまうという側面がある。ただ昔に縛られ老害と言われるならそれでもいいが、結果的にそれらの人々がこれからの若者の邪魔をしてしまっているのではないだろうか。
どんなことにおいても新陳代謝というのは大切だ。古くなったいらない自分を捨てて、いかに新しいものを生み出せるのか。これこそが、「思考力」を育てていく一つの分岐点になるのではないかと私は思う。
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