#休み方を教わる場所
〝頑張り方〟じゃなくて〝休み方〟を教わる
悩みが一番不健康
日常から離れて自分に集中する❕
大学の先輩が住んでいる一軒家に、
3週間シェアハウスさせてもらって🏠
「自分の使い方」について勉強してきた。
体験学習みたいな感じ?
行った先は、福島の山の中⛰
私は東京育ちなもんで、正直カルチャーショック盛りだくさんな場所!
それでも、ここでしか学べないものがあると確信して行ってみた^^
その、具体的なあれこれの記録。
また、別の記事に
〝ワイルドな田舎で〟シリーズを
『日記』『食事』『本』のテーマに分けて
3つ更新しているので、ご興味ありましたら。
なんで福島?
ズバリ、ときめいちゃったから。
福島に移住して、自分のやりたいことに挑戦してる、先輩の姿が興味深くて。
たまたまお手伝いさんの募集をしていたから、手を挙げてみたという感じ🙋♀️
ほんとうに偶然がたくさん重なっていて。
そもそも大学の先輩と言っても7個上の方。
ちゃんとお会いしたのは2度目くらい(笑)
大学のゼミが同じで、先生が
「○○好きそうだから」という理由で、Instagramを教えてもらった方。
数年前から投稿を拝見してて、
「面白いことされてるな〜」と視聴者として、見てたんだけど。
「私と同じようなこと考えてる!」
「なんとなく抱いてるモヤモヤを具現化してくださってる!」みたいなことが
何度もあって🤭
気づいたら会いに行ってました(笑)
とは言っても、3週間友達の家にお泊まりしに行く、みたいな感覚ではなくて。
人生の先輩(もはや先生👩🏫)の
ご自宅に住まわせてもらって、「お手伝いさん」として働きに行くという気持ち。
・イベントの運営サポート
・カフェ営業のお手伝い
・SNSの発信、広報
などを、させてもらった。
ポイントは、あえて
ゆる〜めなスケジュールだったこと。
私の「やりたいこと」「やってみたいこと」を優先してくださった。
そして何よりも、
〝心から休む〟ことを大事にしてくださった!
なんたって「暇」という感覚が分からず、休み方を知らない私なので←
休みたい時には存分に休ませてくださった。
困っている人を助けたいのに
すでに自分がオーバーヒートしていて、そんな余裕がない。
自分も潰れる、周りも潰れる。
そんな状況に罪悪感が募っていく、、
自分の不甲斐なさがどんどん増していく
今までそんな負のループを繰り返してみて
改めて『休む』ことの重要性を学んだ。
だからこそ、今回のお手伝いさん期間においては、責任とか放り投げて
〝思いっきり休むこと〟を体験しに行った❕
わたしのあれこれ
だからこそ、福島での生活における
〝自分の分は自分でやる
余力があれば人の分もやる〟
という考え方は憧れそのものだった。
「やりたいから」ではなく
「やらなきゃいけないから」「義務だから」
と多大なタスクを背負っていた私にとっては
新しい体験だった。
シェアハウス:気遣い屋さんって褒め言葉?
生まれ育った環境において、両親の顔色を伺って生活してきた子供は
どうしても「気遣い屋さん」になってしまうのだと思う。
「気が遣える」ことは
とっても長所だと思っているし、
そんな他人が好きだし
自分もそんな自分が好きでもある。
他人の気持ちに寄り添って、自然と手助けができる〝心の優しい人〟は愛しい。
でも、「気を遣い過ぎる」ことは
誰の特にもならないことがあるようだ。
「気遣い屋さん」にとって
自分の周りに居る人が「居心地よくあれているかどうか」は最優先事項だ。
何かしてあげたい、
何か手伝ってたげたい、
ものを発する時はできるだけ言葉を選んで、
丁寧に関係を紡いでいきたい。
だからこそ、どうしても気を張ってしまう。
周りの顔色を伺ってしまう。
それが当たり前すぎて、
「気にしない」なんてことはできない。
気づいてしまうことを「気にすんな」と一方的に押し付けることは暴論だとすら思う。
そんな「気遣い」が長所でもあり、
ものすごく短所でもある。
知り合いからは「いい人だね」と言われる。
でも、それは〝いい人〟であることを
自分自身も、意識してやっていることであって
本当の想いとは違うこともある。
大丈夫じゃなくても「大丈夫」と言ってしまう
こちらに非がないことでも「ごめんなさい」と言ってしまう
自分が要因でない問題に関しても「私のせいなんじゃないか」と気にしてしまう。
周りに不快な思いをさせないように配慮をしすぎて、
気づかぬ内に、自分の心の内の不快指数が許容を、超えてしまっている。
そんな〝いい人〟を保てない自分のことすら、責めてしまう。
負のループをひたすら持ち続け、いつの間にか全てを請け負い過ぎて限界が訪れる。
〝いい人〟でありたかっただけなのに
周りからは
〝調子がいい人〟〝都合がいい人〟として扱われ
それが当たり前なのだと信じさせてしまう。
本当の気持ちと裏腹に、笑顔で接したきたことに対して
自分の限界がきて突然関係が途切れた時に、「裏切り」だと他人は感じる。
透明な壁の存在に気付いた時、他人は私のことを「信用できない人」だと嫌悪感を募らせる。
そーんなしがらみを抱えながら
私は、わたしであり続けてきた。
そんな生きづらい性格が
「休み方」を学ぶことで、少しだけ変革した。
と。
天才すぎる、、
私は、優しいのではなく
余計な気遣いをしていたのだ、と気付いた。
我慢
この間、カフェで友人とだべっていた時に
友人が言っていた言葉
「社会人・仕事って、我慢比べ大会だよね。」
脳筋バカとか(口悪くてごめんなさい)
要領よく仕事を流せる人とかは別として、
真面目に取り組んでいきたい人は
〝我慢比べ大会〟に強制参加させられているのは、事実としてあると思う。
やっぱり人なんだからキャパシティは決まっていて。
どんなに鍛えてキャパを広げたって
どうしたって限界はやってくると思う。
タイミングは人それぞれだけども。
我慢してる時点で、
いつか終わりが来るのを待っているだけ。
上手に流せるんだったらいいんだろうけど
蓄積してるんじゃ、無理ゲーだよね。
本当に休めているのか?
頑張りすぎちゃう人って、休むことに
なんとなく罪悪感を抱いてしまう。
「頑張れていない自分」を許してあげられない。
休みの日
というと、
私にとっては「充実させる日」という考えをもっていた。
でもそんなことは無かった。
活動(生活・タスク・充実)
休む(寝る・ぼーっとする)
私は、常に『活動』しかしてなかった
休みの日は、命を削って充実させて
日常生活の現実逃避を繰り返して、メンタルを維持し続けるしかなかった。
でも、どうしても
それじゃ心身共に限界が来てしまう。
それを身をもって学んだ。
活動が〝動のエネルギー〟
休むが〝静のエネルギー〟
なのだとしたら、絶対に両方必要だ。
バランスが必要だと。
もちろん人によって、そのバランスの割合は違う。
だからこそ、自分自身で否応でも向き合って
「自分がどんなバランス感覚」であれば健康状態であれるのかを
常に大事にしてあげなければいけない、と感じた。
自分のことも守れない奴が、
誰かのことを助けることなんてできない。
今までの自分を反省しつつ、
これからの未来の私に希望を持つことができた
「またどうせ頑張ってるんで
今はほっといてくださいー!
休みます!バランスとるんで!」
くらいの気持ちで
清々しく生きていくのが目標。
学びの福島旅でした。
これにて、振り返り終了🌱