料理上手な母でなくたって、別にいいじゃない。
世の中には、好きである方が得をする趣味があると思っている。
ーーーそれは、「料理」。
食べることは、人間の三大欲求。
好き好んで食事を準備してくれる人のことを、一体誰が嫌いになろうか。
むしろ、恋愛・結婚市場において爆上がりポイントだし、美味しいごはんが並ぶ食卓は、子どもにとっても嬉しいものだと思う。
なぜ「料理」について書こうと思ったかというと、ここのところ自分の理想通りにことが進まなくなったから。
離乳食に大人の食事準備…。ちゃんとやろうとすればするほど、息が詰まる日々。
もともと料理が得意ではないわたし。それなりに、ベビーフードにも頼りながらなんとかやってきたのだが。世の中手料理で頑張っている母も多いと気づき、想像以上に気が滅入ってしまった。
これから本格的に子育てが始まろうとしているのに、ほんとにやっていけるの私?と…。
今日は「料理」に対するモヤモヤを紐解きながら、少しでも気持ちを立て直したいと思う。
「誰のために」料理をするのか
「料理が不得意」と大声で言いづらい心の奥底には、これまで植え付けられてきたジェンダー的役割があるのだと思う。
生まれ育った家では、「女の子は料理ができたほうがいいわよ」などとは言われなかった。男兄弟とも同じように平等に育てられて、とても感謝している。
しかし大学生になってから、「料理ができた方が世をうまく渡れると、一言教えてくれても良かったのに」という気持ちが芽生える。(他責思考なのは反省)
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はじめて衝撃を受けたのは、大学時代に入っていたサークルの打ち上げのときのこと。
「女子は一品作って持ってきて。男子は酒の準備ね」
そんな風に、男女で役割を決められた。
授業にバイトにサークルに忙しいなかで、さらに作って持っていくのか。そう思いつつも、わたしが作ったのは、「ポテトサラダ」。
卵の黄身をなめらかになるまで潰し、白身も細かく刻んでじゃがいもと混ぜ合わせ、マヨネーズと塩コショウでたっぷり味付け。見た目も、ミモザサラダ風に。卵とトマトとレタスと、彩りよく飾った、よくおばあちゃんが褒めてくれたレシピだ。
しかし当日、わたしのポテトサラダは最後まで売れ残った。周りの女友達は、「料理苦手だよ〜」「何作ったらいいかわからないよ〜」とかいいつつも、とってもオシャレな手料理を持ってきていた。
アボガドのディップ。チーズやハムなどを綺麗に飾ったクラッカー。手がかかりそうな揚げ物に、可愛いおにぎり、腹持ち良さそうなチキンのレシピまで。
どうしてポテトサラダなんていう超単純なレシピを選んじゃったんだろう…。
繊細だったわたしは、売れ残ってしまった、愛情込めて作ったポテトサラダがそれはそれは可哀想で、ほろりと来てしまった。わたしには料理のセンスがない…。そう思うには、十分すぎる経験だった。
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「僕は女性に料理を作ってだなんて求めないよ」
そんな風にいう男子もいた。料理好きだよ〜、と言って、たとえば鍋パやタコパで率先して作ってくれる人。
「ちょっとおつまみ足りないね」とか言って、ササっと卵焼きを作ってくれたり。ちょっとひと手間なことをすぐやってのけちゃう彼らは、もうありがたいのなんのって。
そしてそれを賞賛する私たち。いや、作ってくれるのであれば、それは男女ともに高評価だろう。
しかし、男子は料理ができなくても責められないのに、女子はできないとネガティブに見られてしまう。そんなことってないだろうか?
近頃は、この点における男女差も小さくなってきているかもしれないが。
職場では、わたしが錦糸卵の作り方を知らなかったこと、包丁の刃の入れ方が下手だということ、そんなことを男の先輩から飲み会で揶揄されたこともある。素直でなかったわたしは、ムッとしてしまった。だって、余計なお世話じゃん…。こういう細かなエピソードは色々ある。
そして思った。「人から好かれるために/喜ばれるために」料理する、世の中にはそんな人が大勢いるのではないか。わたしは紛れもなくそのうちの1人だ。もっと自分を喜ばせるための料理であっても良いはずなのに、そこには他人の評価が見え隠れしている。恋人に、家族に、子どもに、喜んでもらいたい。料理が好きだからやっている、と言える人のことが、どれほど羨ましいか。
料理にとやかく言わない人と結婚したのに
結婚相手は、わたしにぴったりの人だった。
たぶん、夫と結婚してなかったら、今も結婚してないんじゃないかな、と思うほど。
料理に対してズボラなわたしを受け止めてくれる男性は、これまで出会ってきた人たちを思い返してみても、夫はピカイチだ。ご飯が準備されてなくても文句言わないし、むしろ仕事終わりに率先して作ってくれることも日常茶飯事だ。
そんな彼が、最近変わり始めた。
それは、子どもが生まれたから。
以前はネタにしなかったことも、最近は口にするようになった。
たとえば新婚の頃、わたしがご飯を準備した際に、おかずが茹でたブロッコリーしか出てこなかったこと。
これだけ聞くと確かに最低なのだけど、仕事に忙しかった当時、ミニトマト洗っただけとか、おかずは冷奴だけ、味噌汁はお湯を注ぐだけ。そんな日があってもまあおかしくはなかった。
しかし夫は続けていった。
「ネグレクトの定義は思ったよりも広いんだよ」
これだけ聞いて、プツンと切れてしまったわたし。
夫が言わんとしたことの意味を、最後まで聞いておけば良かったのだけど。
てかねえ、そんなこと言うくらいなら、あなたも離乳食作ってよ。
とか言い返しつつ、
「食事 ネグレクト」
検索魔になった。
補足:当時は夫と半々で食事の準備をしていた。
夫の意図は、ちゃんと作って欲しいという意味ではなく、食材がないならないなりに、お惣菜買うとか、冷凍食品使うとか、もう少し考えて欲しかった、との意味なのだと思う。それには同意します…。
わたしにとって、「食べる」とは?
コーチングセッションで、モヤモヤを吐き出した後、この問いを聞かれた。
『〇〇さん個人にとってではなくって、
お子さんも同じ食卓に座っているなかで、食べるとはどんな意味がある?』
「…おいしいね、楽しいね、ということを伝えたいかな」
『料理の話になると、いつもつらそうな表情になる。そこまで頑張って料理したとして、苦しそうなお母さんをみて、お子さんはどう思うかな?』
「…」
やはり、わたしの中でも、母になったことで大きなマインドシフトが起きていることを自覚した。食べることの意味が、夫婦2人だけだった頃とは変わってきていて、でもうまく生活リズムが出来上がっていなくて、それで苦しかったのかもしれない。
わたしは、食べるのは好き。でも献立を考えて買い出しして下準備して…のプロセスでどうしても面倒になってしまう。
一方で、健康は何物にも変え難い。子どもに素材を食べさせてあげたい。
その想いから手作り離乳食にトライしているが、本当は1週間分が2時間で作り終わるはずのレシピ本なのに、わたしは時間内に到底終わらず、それが情けなかった。
まだ0歳なのに、これからずっとずっと食事は続いていくのに…。今後はお弁当だって作ることになるのに…。こんなんで、母親務まるのかな…?
世の中、母親に求められるレベル高すぎだよ。
100を目指さず、10から始める
わたしが笑顔で楽しく作れる範囲を考えてみたら、100%手料理を子どもに準備することではない、という結論に至った。
ベビーフードにも頼ったっていいではないか。そもそも栄養価は高い。間違いなく心強いアイテムだ。頼ることに罪悪感を感じる必要はないではないか。
それに、母親業は料理を作ることではない。そう友人が言ってくれたことも励みになった。
レシピ本通りを目指さず、そのうちの10%くらいはやってみよう。できる時はもう少しトライしよう。続けていけば、そのうち子どもの好きなレシピなんかも分かってきて、要領が掴めてくるかも。
今後もまた悩むと思うけど、まずはそんな気持ちで過ごしてみようと思います。
(とか言いつつ、今週は90%手料理しています。この記事を書きながら一番励まされたのは自分なのかも。笑)
キッチンに立つのを苦に感じている方に、わたしも同じだよ、と伝えたいです。
そして、料理好きな母でなくてごめんね、ではなく、
食べるって楽しいことなんだよ、ってことを伝えられる母になりたい。