ここは無秩序な現実/アリ・アスター『ボーはおそれている』【映画感想】
「へレディタリー/継承」「ミッドサマー」のアリ・アスター監督による3作目の長編映画『ボーはおそれている』。日常のささいなことで不安になる怖がりの男・ボー(ホアキン・フェニックス)が怪死した母親に会うべく、奇妙な出来事をおそれながら何とか里帰りを果たそうとするという映画だ。
本作は上記記事で監督自身が語る通り、ユダヤ人文化にある母と子の密な関係性、そして"すべては母親に原点がある"というフロイトの精神分析を織り交ぜた物語だ。フロイトの理論であるエディプス・コンプレックス(※)を下地にしつつ、精神世界を旅するような筋書きだが極めて現実的かつ現代的なテーマを扱っているように思えた。本作をミーム化したりする仕草やバズ狙いの過剰な形容による大袈裟な感想に抗うべく、この文章では精神分析的な解釈を冷静に記しておきたい。
守られ過ぎた子供
本作の主人公・ボーは守られ過ぎた子供である。母親の庇護は凄まじく、とっくに中年のボーの私生活を管理する。また亡くなった父親が絶頂とともに息絶える家系だったという理由からボーの性行為を禁じるなど、常軌を逸した過干渉を行う。
物語序盤、母が存命中の時にも様々なアクシデントが起きてボーは帰省が困難になる。しかしこれらの一連の出来事は帰省を拒むボーの無意識の表出のようにも見える。そう、ボーは何とか母親から逃れようとしているし、母親から守られた過ぎた存在であるという自覚はあるように見える。
しかしボーの母は子との密着をやめない。ボーが成長しても現実と向き合うための保護者らしい厳しく優しい手ほどきはせず、偏った愛による支配を続ける。ボーは母の示したルールだけをインストールし、不健全な安心感を得てきた。危険な地域に1人で住むボーがそれなりに生活できているのは、母親との繋がりを保てているからだろう。
ボーは前述のようなエディプス・コンプレックスを克服しない。父親の介入はなく、社会的な「法」はボーには通用しない。母親への原初的欲望を利用された挙句、母がいなければ不安で仕方ないという、苦しい精神構造を抱えてしまった。
そして母が失われた途端に彼の世界の秩序は崩壊してしまう。守られすぎた子供は、保護者の不在によって無秩序な世界へ放り出されてしまうのだ。そこで生じるのは数々のは“おそれ“。次項ではその“おそれ”の正体について考えていきたい。
現実の侵襲
物語の第1幕は、そもそもかなり治安の悪いボーの家から始まる。安心のために飲んだ薬の副作用に怯え、安全な家に他者が侵入していく、と次第にその秩序がぐらつく中でボーは母の死を認識する。そして更に現実の侵襲性が高まる。明らかに周囲の攻撃性が強まり、警官の反応も奇異だ。これこそがまさにボーが身を置く無秩序な世界であり、母を失ったボーの世界認識なのだ。
第2幕は怪我をしたボーを保護したとある家族の家が舞台。ここではボーが別の家族の形を理解していく、、というような筋書きと予想していたのだが、実際はこの家族が戦死した息子の代替としてボーを利用しようとしていた。どちらかといえば異常なのはこの家族のほうで、ボーは薬物を使用した娘の暴走やPTSDを抱えた息子の同僚である帰還兵から多大なる侵襲を受けることになる。
第3幕は1人ぼっちになったボーが同じように孤独な人々が集まったコミュニティに合流し、演劇を観ることで自分のifの人生を思いを馳せる。我々と同様に映画などの物語を鑑賞し、自分の人生と重ねる仕草によく似ており、健康な精神の表出のように見える。しかし自身の経験の乏しさから決してイメージしたようにはなれない事実に突き当たり、絶望することになる。
例えば統合失調症の患者は妄想という形で自ら「法」を作り出し(「私が天皇の血統だ」「私が勇者だ」など)、自分なりの秩序を何とか保とうとする。しかし、ボーの“おそれ”は近いようで少し違う。あくまで母からの支配という外的な要因によって、世界の認識が歪んでしまったことが彼の抱える“おそれ”の正体だ。誰しもがそうなり得る、という存在としてボーはこの映画を通して我々の世界へも侵襲をもたらしてゆくのだ。
最後の幻想
クライマックスにあたる4幕は最も悪夢的な描写に徹しているように思える。しかしあくまで軸足は現実に置いてある。
ようやく帰省を果たしたボーは、葬儀が終わった母の自宅で恋焦がれていたエレインという女性と再会する。自分を縛っていた母はもういない。これからは他者と愛を育むのだ!と母の存在を侵襲するように母の寝室にエレインを招き入れ、初めての性行為を行う。そこで絶頂を向かえると死ぬどころか人生最大の喜びを感じる。“おそれ”を乗り越え、家族の支配の外へ踏み出すシーンだ。
しかしここで終わらない。絶頂の後、なぜかエレインのほうが腹上死し、死んだはずの母が現れる。母はボーの愛を確かめるべく死を偽装しており、またボーのこれまでの行動、いや人生のほとんどを監視していたことが判明する。どれほど勇気を持って踏み出せど、全ての人生が母親の手中にあるという逃れらぬ運命。愛僧が両輪駆動で2人を密着させ続けていた事実が突きつけられる。
ボーは連れていかれた屋根裏で、自分によく似たボロボロの男、巨大な男性器の怪物、そして2、3幕で登場した帰還兵と出会う。本作で屈指の混乱を招くシーンだが私はこう読み解いてみた。
ボーによく似た男はボーの双子とされているが、母に縛られたボーの心の表出だろう。また男性器のバケモノはボーの父親とされるがこれは言うなれば母親が毛嫌い続けてきた、そしてボーが押し殺さざるを得ずにここまできた男性性の象徴のように見える。帰還兵が他者からもたらされた男性性だとすれば、それをあっさり殺せる威力を持った父親由来の男性性(=男性器のバケモノ)は、決して抗うことのできない暴力性ゆえに母と子が無意識に封じ込めてきたものとして映る。
男性的には振る舞えず、母の支配からも逃れられない。追い詰められたボーはついに母を殺す。定石ならばこれがカタルシスだ。ボーはその後で1人でボートに乗り、無秩序で未知の世界に漕ぎ出してゆく。しかしどうも向かう先が怪しい。産道を思わせる洞穴を進むと、子宮にしか見えない空間に辿り着く。そこで再び母と対面するのだ。そう、これは胎内回帰。母を殺し、外の世界に旅立つ。しかしその先に母。凄まじい作劇である。
子宮内は評議場のようであり、大勢の観衆とボーを糾弾する弁護士の男、そして母がいる。ボーはここで罪を裁かれ、結末に至る。まるで生まれきたことそのものをリセットするような結末だ。
数多くの奇妙な描写があったが、この最後の審判シーンだけがボーの精神世界で、幻想だと捉えた。エラインの腹上死は偶然か、母が仕組んだかは不明だがあれは紛れもなく現実だと思う。ボーは心の中で自ら裁きをくだし、1人で子宮に沈むことを選ぶ。死よりも遙か長きに渡る罰として、母殺しの自責を背負って生きていくのだと思う。
極めて現代的な主題
やはりこの映画は病的で悪夢的な妄想譚というよりも、極めて個人的で内省的で、ゆえに普遍的とも解釈され得る心象を描いた作品に思える。つまり自分を含めた誰しもがこうした事態に陥り得る、もしくは陥っているのでは?というアリ・アスター監督からの投げかけに思えるのだ。
例えばボーは人生を主体的に選択せず、母親に任せてきた。つまり様々な葛藤を自力で乗り越える経験のないまま大人になった人物だ。言うなればこの世界の無秩序さを自分の目で捉えられず、頭の中でシミュレーションするばかりで身動きが取れなくなった現代人な不安を体現している。そういった不安は奇異な幻想を現実に繋げる陰謀論信仰に繋がりかねない。一概に疾患として扱うことのできない認知の歪みを生み出し得るのだ。
他者関係への"おそれ”についてはより明確に現代的な不安として描かれている。傷つくこと、傷つけることを恐れて、他者と繋がりきれない。綺麗なものや正しいとされるものを摂取し全てを理解しようとしすぎた結果、理論武装で本来は健全であるはずの性的欲求を不都合なものとして徹底排除し、もしかすると手にできるかもしれない喜びを遠ざけてしまう。ボーは母親の支配でこのマインドに至ったすれば、現代人は"こうあるべきだ"、"こうあらねば正しくない"という社会規範や他者の目線の支配に苛まれているのだろう。
この映画を私がブラックコメディとして笑い切れなかったのは、自分が精神科医として診療場面で訊く患者たちの不安を反映し続けていたからだ。母親の支配という悩み、現実が侵襲してくる感覚、その先の妄想に苦しめられる現実。この映画はどんな人でもこうした”おそれ”に飲み込まれ得るという可能性を突きつけているように見える。
突飛なシーンの数々をネタ化して消費するのは容易なことだが、いつ自分がボーの見ている世界を実際に知覚するようになるかは分からない。そうした“おそれ”を持った眼差しもまた、この映画の驚異性と切迫感を際立てるものであるはずだ。
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