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恋が共同幻想だとして/坂元裕二『ファーストキス 1ST KISS』【映画感想】

脚本・坂元裕二、監督・塚原あゆ子というヒットメイカー同士の初タッグ。主演は松たか子と松村北斗(SixTONES)。事故で夫を亡くした折、タイムトラベルする術を手にした妻が、夫の死なない未来を作るために15年前・2009年に2人が出会った日へと戻り、手を尽くそうとする。何度となく扱われきたSF題材であり、その目的もラブストーリーとして極めてオーソドックスなものだ。

しかしそこは坂元裕二。この夫婦は離婚寸前にこの事故に直面したという状況が用意される。“死の受容”の段階にも進みようのない心境の中、時間遡行を繰り返すのだ。松たか子と坂元裕二のタッグで離婚と言えば「カルテット」「大豆田とわ子と3人の元夫」といった連続ドラマ作品群にも連なるが、そこには夫の死は描かれてこなかった。本作で遂にそれを描いた意味を考えようと思う。

関係の世界

硯カンナ(松たか子)はタイムトラベルという舞台装置を偶発的に手にする。彼女が仕事場である2.5次元舞台で演劇の外側から小道具である銃を劇の世界へともたらしたことと引き換えるようにして、彼女の世界を変容するための武器を手にしたのだ。対してその夫・硯駈(松村北斗)の死は彼女の世界の特異点のように変わらない。彼が研究する古生生物の化石のようにそこに固着する。

カンナは事故のきっかけとなる要因を取り除こうと何度も改変しようとするのだが、それは叶わない。しかし何度も若き日の駈と出会い直し続ける度に、カンナの心境だけが変化していく。冷めきりすれ違っていた現在地からかつて惹かれ合い愛し合っていた頃に引き戻されながら、不可逆な死に直面し続ける。そしてそれは出会わない、結ばれないという選択を取っても同じことになる。

様々な時間が並行し描かれる本作。「大豆田とわ子〜』でも引用された、複数の時間軸の自分が同時に居るという『時間は存在しない』という本の概念が映画全体の骨組だが、しかし本作におけるその扱いはあくまで外枠であるように思う。映画の根幹には同書の著者カルロ・ロヴェッリが2021年に出版した『世界は「関係」でできている』で描かれる量子力学概念があるように思う。

この本で量子力学を用いて示されるのが、この世界で発現する事柄はすべて何かとの関係において発現するということだ。何かと関係することで初めてそれらの姿かたちが保たれるという、万物の状況依存性について述べてあるのだ。つまり今あなたの目の前にあるすべてのものが、あなたとの関係性によって成立するものであり、あなたとでなければ成立し得ない存在であるということだ。

映画において何度も未来を変容させようとするカンナだが、変わるのは心境だけで運命は変わらない。カンナと駈が強く結びついた存在だからこそどんな超越的な事象を起こそうとも2人が2人である以上、結論は変わらない。タイムトラベルという舞台装置、どの未来にも固着した死は2人が関係している以上、物語の流れ自体を大きく変えはしない。変わるとすればやはり心の側なのだ。



我々を向く映画

最後のタイムスリップで駈は「15年後のあなたに会えるならもう一度あなたと結婚する」と運命を受け入れていく。ここで物語の主体が駈に移る。結果の変わらない運命だとするならば、せめてその過程でよりよくあれるようにと勤しんでいくのだ。ある種、駈は未来予知の能力を手にしているわけで結婚生活を良くするという使命のために動けるのは映画的な超越性に満ちる行為である。

しかしこれがとてつもなく現実的な感動を伴って胸を打つ。なぜならば死というのはSFでも映画でもなく現実の宿命だからだ。"死が待ち受けることが分かっている"ということは駈も我々も変わらない。大切な人がいるならば大切にする。大切な人がいなかろうが日々を噛み締める。その当たり前(だが忘れがち)な選択の先で、穏やかな生活を映画の最終盤に描く点にこの映画の本質があるのだ。

フィクション作品というのは観客の理解はさておき制作者の描きたい世界を作られるものも多いし、個人的にはそういった作品に強い魅力を感じるのだがこと「ファーストキス」は真っ直ぐに観客に向けられていることにこそ強く心打たれた。ほぼ2人の会話劇に終始する閉じた世界を描いた映画が、自分を含むこの現実へと開かれている。それこそが本作のフィクションとしての誠実さだ。

SFとして観れば気になる点は多い。最後のタイムトラベルを終え、カンナは現在に戻ってどうなったのだろうか。戻った瞬間にあの満たされた日々を生きた記憶が胸に去来しているのだろうか。彼女の内側にこみあげてくる愛しい寂しさがあるのだろうか。そんな風にあのカンナにも思っていて欲しいと願わざるを得なくなる。この局面において我々の感情もまた、映画に向けられていくのだ。

上も下も前も後ろも定かではなかった古生生物ハルキゲニアのように、2か3か4次元かも判然としない舞台のように、この映画は空間も時間も全方向的である。カンナと駈の出会いも継ぎ目がなく仕立てられるし、あのキスは最初であり最後でもある。こちらが映画を観ていると思いきや、観られてもいるし、やはり観ている。時空も主体も曖昧になり、いつしか全ての宇宙が包み込まれるのだ。



坂元裕二を逆行する

心理学者/精神分析家の岸田秀が語ることには恋愛とは「双方の私的幻想を相手に投影し合って仕上げていく共同幻想」なのだという(※)。互いの理想像は食い違っている場合も多いが、自分の利害を捨てて相手のために、共通の目的のために尽くすのが恋愛の不可欠要素なのだ。決して盲目的情熱ではなく、決断と誠意と信頼で構成される恋愛ゆえにそれを怠ればあっさりと崩れる幻想なのである。

例えば「カルテット」で松たか子が演じた巻真紀とその夫・幹生(宮藤官九郎)は最初から夫婦に求めている幻想のすり合わせがうまくいっていなかった。幹生が真紀に託す"ミステリアスな恋人"像、真紀が幹生に託す"普通の家族"像は平行線になる。言い争うこともできず、押し黙ったまま事態は複雑化する。真紀はその後、カルテットとの緩やかな連帯を選ぶ。幹生のその後は悲惨なものだ。

大豆田とわ子~」の3つの離婚はそれぞれ理由は違う。3番目の夫・中村(岡田将生)は周囲の目、2番目の夫・佐藤(角田晃広)は嫁姑問題。いずれも共同幻想を阻む外野の問題だ。1番目の夫・田中(松田龍平)は彼の想い人の存在がとわ子を苦しめる。最初から共同幻想など成立していなかったのでは?という不安が胸に迫る状況が描かれている。しかしとわ子は3人とも穏やかな関係を築いている。

この2作を通せば恋愛が消失すれば他者関係は安定するという結論になるが『ファーストキス』はそれに逆行する。夫婦として思いやり、幻想だろうが恋愛し、現実として添い遂げることを描くのだ。坂元裕二の大ヒット映画『花束みたいな恋をした』は若い男女の恋愛と共同幻想の話であり、『ファーストキス』は同じ映画という媒体で中年夫婦を描くことは「花束」への返答にも思える。

思えば『ファーストキス』はこれまでの坂元作品で多く描かれてきた出会いと別れの全てを包摂していくような力があるように思う。配偶者の死という現実的な宿命も、もう1つの世界を描く超越的な仕掛けも、全てがこれまでの物語世界、そして我々の生活を照らし出す光である。私たちがよりよくあれる時間は限られている。だからこそ、やるのだ。愛おしさを果てまで追いかけるのだ。



(※)岸田秀『ものぐさ精神分析』より


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