瞑想って何?/10.瞑想する人の性質②
個人は常に自分以外の何かと関わっています。
世界から完全に無関係になることはできません。
私とは個人。
個人とは?
こんな言い方をします。
「体・考え・感覚器官の複合体」に閉じ込められている人
(※学び始めの段階では便宜上「閉じ込められている」という表現を使いますが、学び終わりの段階ではこういった表現の違和感が解消されます。だから今は気にしないでね)
個人は全体と関わっています。
最初の関わりは、私とお母さん。
次に、私と家族。
私とご近所さん。
私と先生。私と同級生。私と学校にいるたくさんの人。
私と社会の人。
私と空気。
私と太陽。
私と水。
私と植物。
私と大地。
私と地球。
私と宇宙。
私とそれらは切り離すことはできません。
私は周りの人と関わります。
周りの人は、私のことを「周りの人」として関わります。
母や父が目の前にいれば、私は「子供」
祖母や祖父が目の前にいれば、私は「孫」
配偶者が目の前にいれば、私は「妻」や「夫」
子どもが目の前にいれば、私は「親」
友人が目の前にいれば、私は「その友人」
雇い主が目の前にいれば、私は「従業員」
上司が目の前にいれば、私は「部下」
目の前にいる人が変われば、「私」は一瞬のうちに置き換えられます。
では、瞑想の定義の方に戻ります。
目の前にいるのがイーシュワラであれば、私は何でしょう?
イーシュワラとは知識の源であり、材料の源であり、
目の前にあるありとあらゆるものに行き渡っているもの。
あなたの体もイーシュワラの作品。
大自然を思い、その背後のイーシュワラのパワーに圧倒される人。
私の体はイーシュワラに生かされていると思える人。
先祖を思い、この肉体の繋がり、つながりの法則イーシュワラに感謝できる人。
イーシュワラを想う人のことをバクタと呼びます。
恐れずに日本語訳すれば、帰依者。
ちょっと宗教的な言葉ですよね。
でも、五感が届かないエリアがあることを
知的に、謙虚に理解しようとしたっていいと思います。
決して今生きている世界から離れたふわふわした話題ではないです。
で、イーシュワラとバクタの関係性。
目の前にあるものにイーシュワラが見えれば、私は「バクタ」
イーシュワラが見えていれば、何が目の前にあっても「バクタ」は置き換えられません。
目の前に花があっても、山があっても、海があっても、ただの壁があっても、私は「バクタ」
目を閉じていて、香りがあっても、空腹感があっても、私は「バクタ」
瞑想中はイーシュワラを想います。
瞑想中はリラックスする必要があり、
リラックスすることで客観性が養われます。
瞑想を始める前にベーシックパーソンに馴染ませておきます。
その意識的な存在である個人の私が、全体であるイーシュワラと関わります。
ベーシックパーソンは既に緊張から自由です。
緊張から自由にさせる必要はありません。
知識とはあるがままの宇宙の姿のこと。
そのあるがままの姿が見えないのは無知がそこに覆いかぶさっているから。
無知を追い払えば、ただただあるがままの宇宙の姿が、あなたの本当の姿が、知識として現れます。
緊張から私を解放し、自分に対する無知を追い払えば
リラックスしている私が現れます。
私は世界と摩擦することなく、
まさにイーシュワラの一部として、
ありのままの私で、存在していて、いいのです。
(次回に続く)
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