酒見賢一のハヤカワ・SFコンテスト応募作と、三種類の『聖母の部隊』

酒見 別に何の賞でもよかったんですけど、規定が四百枚と長い賞というのがほかになかったので、ファンタジーというから、早川文庫のFTみたいなものかな、と思ったので、どうせ無理だろう、と。おまけにアニメ化するとか書いてあるし、出した時点で諦めていましたね。もしほかに四百枚のものを引き受けてくれるところがあったらそこに出していたと思います。これまでには、「SFマガジン」の新人賞とか応募したことがありました。規定が百枚で、二、三個書いたけど。一つは夢の中での戦争の話。それは国家の戦略として、夢の中での戦闘のための部隊を作る、かなりの数でちゃんと戦隊を組んで。いい話だと思ったんですけど、かすりませんでしたね。   

〈幻想文学〉29(1990年)、「幻想という枠を逃れて ――ファンタジーの諸相――」
石堂藍(取材・構成)
太字強調箇所は引用者による。

『後宮小説』において、弱冠二六歳で第一回日本ファンタジーノベル大賞を受賞し、小説界から激賞を浴びた酒見賢一だが、上記の通り、デビュー以前にハヤカワ・SFコンテストに複数回応募していたことも語っている。
そもそも初期のインタビューで酒見は、インド哲学を学ぶつもりで進学したが大学に中国哲学専攻しかなくやむをえず選択したこと、最初はアラビアを舞台に『後宮小説』を書こうと構想していたものの卒業論文を明末清初で揃えていたために中国風になったことを述べ、『後宮小説』がヒットした結果、(謙遜ではあるだろううが)中国史は良く知らないのに、詳しいと勘違いされて中国史ものの依頼ばかり来るので慌てて勉強した――という風に何度も語っている。司馬遼太郎を真面目に読んだのは大学二年生からということも公言しており、特に尺を割いて語られる読書の原体験は、エラリイ・クイーンのミステリ、及び、平井和正を中心とするSF作品だった。〈波〉一九九二年一月号の佐藤亜紀との対談「〈作家〉になるまで」では、下記のような発言がある。

酒見 僕は中学生になってやっと自分なりに読めるようになったというか、SF物に目覚めて、まず星新一さんから始まって今に至ったという感じです。創元文庫をちゃんと読んだのが中学一年ごろで、その頃ハヤカワ文庫が創刊されて。やっと久留米の田舎でも読めるようになりました。

酒見 筒井康隆さんの「SF教室」なんてすり切れるほど読みましたけど、そこに取上げられている作品が本屋にはないんです。ハヤカワ文庫が出て「火星人ゴーホーム」とか「はだかの太陽」とか、古典的名作がずいぶん出て次々に買い始めました。

酒見 僕が作家になろうかな、と思い始めたのは、中学二、三年生で平井和正さんを読んだ頃ですか。非常に刺激が強いから、ものすごく影響されました。

平井和正への思い入れは、前掲の「幻想という枠を逃れて ――ファンタジーの諸相――」の中で、「今でも師と仰いでるくらい好きですね」「『幻魔大戦』はエンターテイメントでありながら、非常に重い宗教小説といってもいいようなものになっているのが凄いなあ、と。平井和正はドストエフスキーに比肩していいんじゃないかというくらい買ってますね」などと、熱く語っている。
それゆえに、酒見がハヤカワ・SFコンテストに作品を応募していたというのもある意味、必然のなりゆきではあった。残念ながら、冒頭の引用部で語られている“夢の中での戦闘のための部隊を作る”作品は商業発表されておらず、読む手段は無い。ただし、ハヤカワ・SFコンテストへの応募作の中で、入手可能な別作品がある。短篇「追跡した猫と家族の写真」である。
〈SFマガジン〉一九八九年八月号には、「第15回 ハヤカワ・SFコンテスト第一次選考結果発表!」の記事があるが、その中に通過作品として「酒見賢一 追跡した猫と家族の写真」の名が掲載されている(ちなみに、一次選考通過作には林譲治の名前もある)。

僕がデビュー作の「後宮小説」を書いていた時、何故か突然「追跡した猫……」が想い浮かび、書きたくなり、「後宮小説」と同時に並行して五日くらいで書き上げている。つまり「追跡した猫……」は「裏後宮小説」なのである。

トクマ・ノベルズ版『聖母の部隊』あとがき

「追跡した猫と家族の写真」は、最終選考に残らなかった。この回のコンテストには最終候補五本が残ったが、全作品が受賞に到らず、コンテストからのデビュー者も皆無である。
しかし、「追跡した猫と家族の写真」は、『後宮小説』でのデビューの後、徳間書店のSF雑誌〈SFアドベンチャー〉に掲載されることになる。その事情については下記のように記されている。

当時、『SFアドベンチャー』には力石さんという編集者がいて、けっこうたらい回しになっていたこれら短編を(多分、大森望氏を経由してのことだったとおもう)引き受けてくださった。ほとんど習作に近いもので、今現在でもまだ若書きしているような僕であるから若書き中の若書きというような短編である。

トクマ・ノベルズ版『聖母の部隊』あとがき

ここで、酒見賢一作品の中で、〈SFアドベンチャー〉に掲載されたものを見ていこう。

「地下街」〈SFアドベンチャー〉一九九一年二月号
西ドイツ国籍の諜報員であったが、最強かつ傍若無人なために、世界各国の諜報部に命を狙われたあげく日本に押し付けられたペーター・ハウゼン。彼とその同僚である〈私〉は、「地下街が悪の巣窟になっている」という奇妙なタレコミを受けてその撃破に向かう……という、スパイものの枠を借りたスラップスティック短篇。

「ハルマゲドン・サマー」〈SFアドベンチャー〉一九九一年六月号
世界が滅びつつある夏の終わり、ドライブで海辺に出かけた一組の男女。女が男の言動に不満を述べ続けるさまを、女の側の台詞のみで描写する、という凝った形式の終末テーマ掌編。

「追跡した猫と家族の写真」〈SFアドベンチャー〉一九九一年八月号
大学で超常現象を研究していたカイルは、ゴシップ新聞に掲載されていた、とある猫の起こした奇跡の記事に目をつける。語り手はその飼い主である家族と交流を始めたが、自身も神秘体験に巻き込まれてしまう。本作は日下三蔵編のアンソロジー、『日本SF全集』(出版芸術社刊)第5巻「1990-1997 SFとホラーとファンタジー」に収録予定である。

「聖母の部隊」〈SFアドベンチャー〉一九九一年一〇月号
故郷の村を襲撃されて親を喪った少年たちは、マリアと名乗る正体不明の女性に保護される。マリアは少年たちに、自身を「お母さん」と呼ぶように命じ、彼らをジャングル内のゲリラ戦で戦う兵士として育て上げる。やがて、少年たちは「お母さん」の秘められた任務を知ることになる。文庫で百六十ページを超える中長篇のアクションもの。

わずか八か月のうちに短篇四本と、ハイペースな寄稿である。
これらのうち、「地下街」「ハルマゲドン・サマー」「聖母の部隊」の三作品を収録したのが、一九九一年十一月に徳間書店からハードカバーで刊行された『聖母の部隊』である。惹句は「溢れでるイマジネーションで世界の終焉を描くスーパーノベル」。

表紙イラストは、小松左京作品の表紙画や、『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』のポスターのイラストで知られる生賴範義。生賴は〈SFアドベンチャー〉の表紙画を務めた描き手でもあり、当時の徳間書店としては、新人の第一作に起用するのは期待の表れという扱いだったのだろう。なお、このハードカバー版にはあとがき等は収録されていない。
〈SFアドベンチャー〉への相次ぐ作品掲載と迅速な書籍化で、このままSF作品を発表していくかに見えた酒見だが、〈SFアドベンチャー〉は翌九二年に季刊化し、九三年に休刊してしまう。

――『聖母の部隊』(九一)は、完全にSFですよね。
酒見 あれは、徳間書店の今は亡き『SFアドベンチャー』からの依頼で、まさに待ってましたという感じでした。「私の小説はSFなんです」という思いもあったので、依頼を引き受けたのですが、その一年後に『SFアドベンチャー』が潰れてしまった。
雑誌が続いていたら引き続き、何か書いていたに違いないから、微妙なところですよね。そこに新潮社から『陋巷に在り』(九二~〇二)の依頼が来たこともあり、SF路線が途絶えてしまいました。

〈ユリイカ〉2003年1月号 特集=中国幻想綺譚「中庸とSF的視点」

この回答通り、同誌の休刊が酒見をSF執筆から遠ざけたのだが、担当編集者であった力石の異動も影響していたようである。なお、一九九四年刊行の鏡明編のアンソロジー、『日本SFの大逆襲!』は、日本SF大賞と日本ファンタジーノベル大賞受賞者による(主に)書き下ろしのSF短篇を集めた一冊で、日本ファンタジーノベル大賞受賞者は四人が執筆しているが、意外なことに酒見賢一は参加していない。

『聖母の部隊』は、一九九六年、装いを変えて、新書レーベルであるトクマ・ノベルズから刊行された。今度は「長篇コンバット・アクション」というキャッチコピーである。



表紙イラストはスタジオジブリ所属アニメーターであった近藤勝也。『魔女の宅急便』『海がきこえる』『コクリコ坂から』などのキャラデザ及び作画監督で知られるほか、『後宮小説』TVアニメ版である『雲のように風のように』のキャラデザ・作画監督を務め、『墨攻』がスタジオジブリでのアニメ化が検討された際にイメージボードを描いたほか、酒見賢一原作の漫画『D'arc ジャンヌ・ダルク伝』(2巻分で中断し未完)の作画を担当するなど、酒見との縁も浅くなかった。
(ちなみに、〈アニメージュ〉で連載されていた『D'arc ジャンヌ・ダルク伝』について、恐らく徳間書店はスタジオジブリでの映像化を望んでいたのではないかと思われる。『風の谷のナウシカ』連載完結が一九九四年三月号、『D'arc ジャンヌ・ダルク伝』連載開始が一九九四年八月号)。

トクマ・ノベルズ版『聖母の部隊』にはあとがきが書き下ろされており、各作品の成立事情や、九一年当時のことが最も詳しく記されている。

あの頃は力石さんといろいろな近い将来の話もしていて、もし『SFアドベンチャー』が続いておれば、おそらく何か実現していたはずだから、僕の方向性もいくらか変わっていたかも知れないとは考える。

『SFアドベンチャー』で引き続き仕事をしていれば、ペーター・ハウゼンを主人公にした連作短編なども書くことになったのかも知れないが、もう遠くなりにけりである。

本書「聖母の部隊」を読み返すと自分の出自がSFだったということがよくおもい出される。それも二〇年から三〇年前のSFである。(あと加えればマンガである)今、現在のSFの状況を考えると、僕はあまりにも隔たってしまっているとおもう。現在、他社で書いている「陋巷に在り」とか徳間書店でやっている「ジャンヌ・ダルク伝」などを、
「これはSFだ」
 と強弁しようとおもえば出来ないこともないが、その情熱があまりない。僕は今のSFを読んでいない。サイバーパンク以降のSFはあまり興味をひかなかった。

実際のところ、SF媒体発表の『聖母の部隊』のみならず、『後宮小説』『ピュタゴラスの旅』『墨攻』『陋巷に在り』『語り手の事情』『分解』等々、酒見賢一作品はほとんど刊行される度に〈SFマガジン〉やその他SF媒体でSF関係者による書評が出ていたし、SFランキングで投票・言及する者もいたが、著者本人としては、こういったスタンスであったようだ。
徳間書店は二〇〇〇年に、〈SFアドベンチャー〉に続くSF誌〈SFJapan〉を創刊したが、酒見の原稿が掲載されることは無かった。


二〇〇〇年、『聖母の部隊』は、小菅久実によるカバーイラストで、出版社を変えて、角川春樹事務所のハルキ文庫で文庫落ちした。

ハルキ文庫は当時、「21世紀はSFの時代になる」という天啓を得た角川春樹の主導で大量の復刊と新刊刊行を行っており、御覧の通り(ハードカバー版とは異なり)オビにもSFと大書されている。
「文庫版あとがき」は恩田陸の解説がついているほか、あとがきはトクマ・ノベルズ版のものからは完全に書き換えられ、SFへの思い入れと、当時の世間一般からのSFへの態度に対する苛立ちを表明した後、成年向けPCゲーム『YU-NO この世の果てで恋を唄う少女』を「この数年の間に僕がとくに面白かったSF」として6ページに渡って紹介するという熱のこもったものだった。
その文庫版あとがきは、下記のように締めくくられている。

「宇宙の果て」とか「時間の空間の彼方」とか、子供の頃はこういう言葉を聞くとシビレたものだが、やはりたまにはSFはこういう根本テーマに挑まねばならないだろう。僕もいつかそのうちにやらんといけないな、です。

この願いが果たされることは無かった。残念である。


付記として、表紙イラストについて。
三冊を並べてみると、表紙イラストで「聖母の部隊」のメインキャラの外見描写が大きく異なっているのが分かる。
作中、マリアは、胸まで届く長髪であると描かれ、語り手のケイや仲間たちの肌は「キケの木の葉の色」=茶色と記されており、文中の描写を忠実に掬っている点では、近藤勝也のノベルズ版が最も正確である。
生賴範義のイラストはマリアが短髪になっている。小菅久実のイラストはケイの肌が鮮やかな緑色になっており、(現実の人種を想像させることを忌避した、という配慮かもしれないが、そうでなければ)、暗色に緑系統を使った生賴のイラストに引きずられたミスであろう。
今後もし、表紙を変えて復刊などの企画があった場合には、編集者は参考にして欲しい。


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