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人生と芸術の狭間に、何があるか?
この前、大学の授業で詩を勉強した。
その授業で僕は、こんなCMと出会った。
これはAppleのiPad AirのCMで、その内容は、俳優のロビン・ウィリアムズが、映画『Dead Poet Society(邦題:いまを生きる)』で語ったセリフがそのまま引用されているというものだ。
さらに、ウィリアムズは劇中で、アメリカの詩人であるウォルト・ホイットマン(1819~1892)の詩、"O Me! O Life!"を引用している。この詩も僕に深い感銘を与えたのだが、いったんはこの詩の直前の部分、映画におけるウィリアムズのセリフの部分を引用・意訳しよう。
We don’t read and write poetry
because it’s cute.
僕たちは、ただ詩が美しいからといって
書いたり読んだりしているわけじゃない
We read and write poetry
because we are members of the human race,
and the human race is filled with passion.
僕たちは、人類の一員であり、
そしてそれが情熱に包まれているからこそ、
僕たちは、詩を書き、そして読むのだ。
Medicine, law, business, engineering,
these are noble pursuits
and necessary to sustain life.
医学、法律、ビジネス、工学、
これらはすべて崇高、かつ生きるのに必要なものだ。
But poetry, beauty, romance, love,
these are what we stay alive for.
しかし、詩、美しさ、ロマンス、愛、
これらは僕らが生き続けている理由だ。
この語りを読んで、何を感じるか?
僕がこれを読んで、まず思ったことは、
「生きていくこと」と、
「生きること」は大きく異なる。
ということである。
字面は似ているし、僕もこれまでほとんど同じ意味で使ってきた。
しかし、僕の中では、あくまで僕の中では、この二つは大きく異なる。
簡単に言うと、「生きていくこと」は、息をして、心臓を動かしている状態だ。その状態こそ、人間の基盤にある。つまり、存命しているということである。
対して、「生きること」とは、日々を生活することだ。朝ごはんを食べて、背伸びをし、息を大きく吐く。立ちあがって、着替えを済ませ、燃えるゴミを出しに行く。この状態を、僕は「生きること」だと思っている。
そして、ウィリアムズのセリフにあてはめて考えると、世の中には、「生きていく」ために必要な仕事(モノ)もあれば、「生きる」ことを胸に誓い続けるチカラになるモノもある。
セリフにもあったように、医学やビジネスなどは人々を生かし続けるため、つまり人生を持続させるために絶対に必要だ。それがなければ、国としても機能しないし、人類は絶滅してしまうだろう。
一方で、詩や音楽、美しさ、愛はどうか?
我々は食べ物のように、美しさや愛を享受しないし、空気のように詩や音楽を貪るようなこともしない。
つまり、人が生きていくこと、つまり人間の「人生」において、詩や音楽などの「芸術」は、本質的には必要がないのだ。
では、なぜ我々はそれらを心から求めるのか?
生きていくために必要な金銭を、それに使うのか?
「人生」と「芸術」の狭間に、何があるのか?
それではここで、このセリフの本筋となる、ウィットマンの詩を引用してみよう。
O Me! O Life!
ああ、我よ!ああ、我が人生よ!
Oh me! Oh life!
of the questions of these recurring,
of the endless trains of the faithless,
of cities filled with the foolish,
of myself forever reproaching myself,
(for who more foolish than I, and who more faithless?)
ああ我よ!、ああ我が人生よ!
繰り返される自問自答、
終わりなく続く不誠実な物事、
愚か者で埋め尽くされた街、
永遠に苦悩し続ける自分自身、
(私よりも愚かで、不誠実な者はいるのか?)
of eyes that vainly crave the light,
of the objects mean, of the struggle ever renewed,
of the poor results of all,
of the plodding and sordid crowds I see around me,
of the empty and useless years of the rest,
with the rest me intertwined,
the question, O me! so sad, recurring
—What good amid these, O me, O life?
わずかな光を渇望する人たち
物事の意味を求め、繰り返される闘争、
すべての哀れな結末よ、
私の周りにいる堕落した人々、
残された空虚で中身のない年月、
それらは私に絡みついてくる
そして私は問いかける、みじめにも、何度も、
ここに正解はあるのか、
ああ我よ!、ああ我が人生よ!
Answer. That you are here
—that life exists and identity,
That the powerful play goes on,
and you may contribute a verse.
その答えは、君がここにいること
生きていて、自我があること
力強く続いていく物語に、
君も、一節を寄せることができる
人が生きること。そして芸術が存在していること。
これら二つの関係性に対しての、これほどまでの完璧な回答を、僕は今まで見たことがない。
本当に素晴らしいと思う。
要は、自分のことも、周りのことも許せない状態で、かつ自分の人生の意味も見いだせず、ただ過ぎていく時間の中で、それになんの価値があるのか?と声をあげてしまったことに対して、
それらすべては、君がいないと始まらないのだ。という声をかける。
ただ生きて、そして自我があること。
そうやって削がれていく人生に、自分の言葉を添えられること。
ここに、人が生きる理由があるのだ、と説いたのだ。
世界一の人生賛歌だと思う。
では、僕のこのnoteにおける、3つの問い。
では、なぜ我々はそれらを心から求めるのか?
生きていくために必要な金銭を、それに使うのか?
「人生」と「芸術」の狭間に、何があるのか?
これらすべてに答えてみよう。
なぜ、人々は芸術を求めるか?それに金を使うか?
答えはすでに明白。
意味のない空白な人生に、彩りを与えるため、である。
僕は過去のnoteの記事で、人生に意味なんてないよーだ、ということについて書いたため、この思想は本当に心の底から共感できる。
それでは、「人生」と「芸術」の間には何があるか?
それは、美しさや、生きがい、命綱にも似た何か、、、
総括するなら、それは「おもしろさ」だ。
「面白い」わけではない(面白い芸術も、もちろんあるけど!)。「おもしろい」から、僕らはこうやって音楽を聴いて、映画を観て、小説・詩を読んで、noteを書いている。
やらなくていいことを進んでしているのは、それがおもしろいからだ。芸術は、僕らの好奇心を刺激し、何の意味もないはずの人生に、ある種「疑似的な意味」を与えてしまう。本当に素晴らしい文化だ。
僕らはこれからも、飽きることなく芸術を食べ、そして吐き出していくのだろうと思う。
最後に、
ああ、我よ!ああ、我が人生よ!
ネタをくれ!!永遠に尽きないほどのネタを!!
僕は書くことに、生きがいを見出した。
飽くこともなければ、諦めることもない。
僕にとっては呼吸に等しいのだ!
息をするように書き、息を吐くように投稿する。
きっと誰かが見ているはずと、思いを募らせ、
きっといつか光を見る、と夢見る、
どうか!こんな愚かな人生に意味を!
虚構の意味を!与えてはくれないか!
また明日。
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