阿部敦子
介護の仕事に触れながら想いを深め合ったふたりの、時を超えたラブストーリーです。
認知症のある本人から見た世界を描いた、1話ごと読みきりの小説です。
自宅の庭に咲くボケの花はひとつの株から何色もの花を咲かせ、中には1枚の花びらの真ん中できっちり紅白に分かれているものもある。 母はそれを『想いのまま』という種類だと言い、枝に名札まで下げている。調べてみるとそれは梅の種類の名前で、ボケではなかった。ところが私がいくら説明しても母は、これが『想いのまま』なんだと言い張る。そのうち私もどうでも良くなって、母の言う通りなのだと思うことにした。 私から見ると、母はどう考えてもアルツハイマーだ。まるでテキストの事例に出てくるような、
あのカーディガン、どこにしまったかしら。 もう長いこと着ている、茶色のカーディガン。左のポケットの上にお花の刺繍があって、ころんとした大きなボタンがひとつついているの。 「あれえ……」 タンスの引き出しを開け、奥まで手を入れてさぐってみる。 「ない……」 どこにいっちゃったんだろう。すごくお気に入りだったから、捨てるはずもないんだけれど。 「うーん……」 上から順に開けてみて、これが最後の引き出し。一番下だから見えづらいわ。 「よいしょっと」 膝をついて、一
おしゃれのセンスって、どこに出ると思う? こうたずねると、靴って答える人が多いわよね。ま、少なくとも私のまわりの人は、もちろん、身につける物の話よ。 そうね。靴に合わせて服を選ぶのは確かにおしゃれ。真っ赤なハイヒールにしようと決めたら他はすべて黒にして、小物は最小限に抑える。もともとアクセサリーはそれほどつけないから、ごくシンプルで構わない。それよりこだわりたいのは腕時計かしら。 なんて、それより私がこだわるのは、もっと隠れたところ。人から見えない場所こそ、おしゃれであ
行くわけないだろう、と僕は言った。 「そんなあ、ぜひにと思ったのに」 新しい若造の秘書が嘆くような声を出し、寝間着姿の僕は新聞を広げた。 「話は終わりだ」 「はい……」 僕の前で膝をついていた若造は静かに立ち上がり、部屋を出ていった。 「解散か……」 新聞の一面は国会に関する文字が躍っていた。 僕は市議会議員だ。生まれ育った街を住みやすくしたいという思いは子どもの頃からあり、その一点に注いだ人生だったと言っても良い。 鼻水をたらした坊主頭の僕が街づくりを意識
この建物に何が突っ込んできたらいいだろう。 全て破壊されては困る。条件としては、僕の手脚を縛っている紐が取れること。ここから出られること。僕のように縛られている他のやつらも解放されること。 「助けてー」 どこからか叫び声が聞こえる。 僕がここから出られたなら、似たような建物を全部ぶっ壊してやる。それを犯罪と呼ぶならば呼べばいい。その時はじめて僕は犯罪者となる。 僕がなぜここにいて、こうしてベッドの上で手脚を縛られているのか? 少なくとも僕には分からない。僕はごく普通
家が、見つからなかった。 歩いて歩いて、ずっと歩いて、日が暮れるまで歩いて、でも見つからなかった。 「乗ってください」 若いお姉さんが車のドアを開けた。乗るしかないのだろうと思った。どこなのかも分からない舗道の縁石に腰を下ろした私の膝は立ち上がろうとすると笑い出すし、持っていたはずの財布もいつの間にか失くしていた。 「探しましたよ。ずいぶん歩いたんですね」 運転席でお姉さんがよれよれの声を絞り出した。私は助手席でハンカチの入った巾着の紐を握りしめながら深くうつむいて
裕ちゃんこと、石原裕次郎。若い頃はやんちゃなイメージが強くて、それほど好きというわけではなかった。 きっかけは友達が誘ってくれたコンサートだった。ただでチケットをくれると言うからついて行っただけで、その時はまさかこんなに好きになるとは思っていなかった。 コンサート会場で前から3列目の私に、裕ちゃんは何度も視線をくれた。裕ちゃんの声は渋いだけでなく色気がある。私は裕ちゃんが自分のためだけに歌ってくれているような気にさえなって、甘い夜霧に酔いしれた。 その時から追っかけは始
何やらひそひそと話しながらこっちを見ている人たち。私のことを言っているんだと思うけど、すごく感じが悪い。 言いたいことがあるなら私の前ではっきり言えばいいのに、いつも離れた場所で集まって話している。中には私のほうを指さす人までいるし、どうも穏やかではない感じ。 「ねえ」 テーブルの脇を通った男の子の腕を私が掴むと、相手は立ち止まって両腕に積み上げたタオルを抱え直した。 「どうしました」 「あのね」 私が声をひそめると、男の子は腰をかがめて耳を寄せた。 「あそこに
俺には確か娘がいる。 大事に育てたつもりはあるが、あいつはそんなこと感じちゃいまい。それが証拠に、今はどこで何をしているか分からない。心配したところでどうせあいつは戻らないだろうし、俺の顔なんか見たくもないと言うかもしれない。 言い訳するつもりもない。俺は代々受け継がれてきた酒屋の歴史を守らなければならなかったし、商売の厳しさは言葉より背中で教えてきた。あいつが生意気なことを言えば時に殴ることもあった。殴られて分からないことは、言って聞かせたところで分からない。なぜ殴られ
大切な君へ。ちょっと真面目な話だよ。 今日の僕も帰り道を間違えなかったみたいだね。メモの作り方がうまくなったから、メモさえあれば大丈夫だと思う。物の置き場所リストはすごく効果があって、家の中ではほとんど困らなくなった。さすがに忘れ物リストは作れないから、置き忘れてきた物はなかなか見つからないけどね。 年を取れば誰だって、若い頃のようにおぼえていることは難しくなるよね。僕はたまたまそうなるのが早くて、そして早いということを僕自身が分かっている。それだけのことであって、それが
【まえがき】 今回の物語は、前回の物語(認知症介護小説「その人の世界」vol.24)と全く同じ場面を描きました。主人公は、前回の主人公の隣の席にいた女性です。ふたつの物語を並べて読み比べると、新しく広がる世界があるでしょうか。 【本文】 こういうのが一番困るのよ。 何をきいても返事をしない。せっかく教えているのに、覚える気があるのかないのか分からない。 私、女学校の頃は学級委員だった。人をとりまとめることが多く、部品工場に勤めていた時はパートの女性たちのリーダーを任され
もうどこにも行きたくない。誰にも会いたくない。 私には馴染みの集まりがあった。この地域に引っ越してきた8年前から地区の婦人会に入っている。夏祭りやどんど焼き、防災訓練など、地区のあらゆる催しを手伝う。古くから仕切ってきた先輩の女性たちはとても親切で、何も分からない私でも自然に打ちとけることができた。8年も経てば活動の流れもよく分かっているし、すっかり生活の一部になっている。 ところが先月、娘が急にこんなことを言い出した。 「お母さん、ちょっと定期的に行ってほしいところが
【まえがき】 阿部さま お世話になります。世の中誤解があるのですが、胃ろうなど経管栄養の方のお楽しみ食は、アイスクリームではありません。お食い締め(看取りの方への最期のひとくち)なら良いと思いますが、命をつなぐ段階であればアイスクリームの提供は、ミキサー食以上の経口摂取が可能な方が対象と存じます。 この場合、果実ジュースゼリーや(クリープなし、砂糖はOKの)コーヒーゼリー、あるいは、果実ジュースや(クリープなし、砂糖はOKの)コーヒーのとろみの提供が良いでしょう。つまり、
なんやこれ。ただのお湯やないの。 「ちょっと、ちょっと」 私はエプロンをつけたお姉ちゃんを呼び寄せた。 「はあい」 甲高く返事をしたお姉ちゃんが私のもとへ来ると、私は手にしていたお椀の中身を指さした。 「これこれ、ぜんぜん味がせえへんのよ」 「そうですか。そんなはずはないんですけど……」 「誰も言わへんの?」 「はい、今のところ……」 「私のだけ何か違うん?」 私が見上げると、「ちょっとお待ちください」と言ってお姉ちゃんは姿を消した。代わりに現れたのは白い
もうあれから3日が過ぎた。いったんここで宿を取り、翌日からヨーロッパへ骨董品の買いつけに行く予定だった。 息子と私は201号室と202号室に分かれて泊まった。社長である息子は深夜まで仕事をするのが常だったし、私は9時には就寝しないと体調が崩れる。 出発の朝、身支度を整えた私は息子の部屋をノックした。返答がないので、ねえ、と言ってもう一度ノックする。やはり返答がない。 引き戸のドアに手をかけると、鍵がかかっていなかった。入るわよ、と声をかけ、私は部屋の中に足を踏み入れた。
今の時代だとペンションていうのかしら、こういうの。 要するにお泊りする所なのよね。お部屋におトイレがついていて、食事は決まった時間に食堂でいただくの。お風呂は共有で、順番に入る。 昔からたまに家を離れてひとりで過ごすのが好きだった私は、近場でも宿を取ってのんびりするのが趣味だった。孫と同居するようになってからは特に、家族が気をつかって定期的に宿を手配してくれる。 今の私は行きつけの宿がふたつある。ひとつはまあまあ大きめで、ちょっとホテルっぽいところ。もうひとつはそれより