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認知症介護小説「その人の世界」vol.33『女を女として』

おしゃれのセンスって、どこに出ると思う?

こうたずねると、靴って答える人が多いわよね。ま、少なくとも私のまわりの人は、もちろん、身につける物の話よ。

そうね。靴に合わせて服を選ぶのは確かにおしゃれ。真っ赤なハイヒールにしようと決めたら他はすべて黒にして、小物は最小限に抑える。もともとアクセサリーはそれほどつけないから、ごくシンプルで構わない。それよりこだわりたいのは腕時計かしら。

なんて、それより私がこだわるのは、もっと隠れたところ。人から見えない場所こそ、おしゃれでありたいわ。それこそ、その日の気分まで変わるものよ。どれを選ぶかによってね。

「そろそろ、お風呂に行きましょうか」

声をかけてきたのは若い男の子だった。

「お風呂?」

「そう、お風呂」

相手は照れもせずに言った。私は足組みをして彼を見上げた。

「あなた、私をお風呂に誘ってるの?」

「はい。お風呂に誘ってます」

「ふうん」

可愛い顔してずいぶん度胸がいいのね。いきなりお風呂に誘うなんて。しかもこんな人前で。

だってここ、映画鑑賞が終わったばかりでまだ人がたくさんいるのよ。映画館ではないからそれほど広くはないけれど、それでも何十人かはいるわ。そこで何の恥じらいもなくここまで堂々とお風呂だなんて。

「あなた、大したものね。こんなの初めてよ」

私は髪をかき上げると、斜め上に彼を見た。

「はあ。そうですか」

彼が頭を掻いて、私はくすりと笑った。

「当たり前じゃないの。いきなりお風呂に誘う人なんて、これまで出会ったことがないわ。ものごとには順序があるのよ」

「順序」

「そうよ。教えてほしい?」

「ああ、はい」

「ふうん」

可愛いわね。素直なの。

「じゃあ教えてあげる。まずは私の隣に坐りなさい」

「はい……」

男の子は遠慮がちに浅く腰を下ろした。

「まずは私の目をじっと見つめなさい。それから何か私のことを褒めてちょうだい」

「はあ……」

軽く天井を見上げてから、男の子はぼそりと言った。

「なんか……いいですね」

「なんかって何よ」

「なんか……全体的に」

「全体的に? 全体的にって、それじゃあ分からないわよ」

「うーん……」

この子、女の褒め方もまだ知らないのね。

私は脚を組み替えると、両肘を抱えて彼を見つめ返した。

「仕方ないわね。最初から教えてあげるわ。女を褒める時は……」

「あの」

私の言葉を遮ると、彼はまた頭をくしゃくしゃと掻いた。

「これ、いつまで続くんですか」

「いつまでって?」

「だから……」

相手は覚悟を決めたように息を吸い込むと、強く言い放った。

「僕、そんなに待てないんです」

あまりの驚きに、私は言葉を失った。こんなに大人しそうな子なのに、すごいことを言うわ。

「僕、もう待てません」

立ち上がった彼につられて私も立ち上がった。彼は私の手を取ると、半ば強引に引いて歩き始めた。

「ちょ、ちょっと、ものごとには順序が……」

「そんなの関係ありません。僕はもう待てないんです」

悪くなかった。こんなに強気な表情を突然見せるなんて、悪くないわ。

「ここです」

彼が案内したのは浴室だった。蛍光灯の明るさが目にしみる。

「明るすぎるわ」

私が顔をしかめると、彼はしれっと答えた。

「暗いと、何が起こるか分からないですよ」

ほんと、大胆なことを言うんだから。

タオルが敷かれた椅子に腰をかけると、彼がカゴを持ってきた。

「脱いでください」

脱ぐって……。

「脱がせてくれないの?」

「自分で脱いでください。自分でできることは自分で」

「だって……」

「大丈夫です。僕は見ていますから」

見ているって……。

「そういえば私、新しいパンティを持ってきていないわ」

俯いた私の前に膝まづくと、彼は私の腕に静かに手を触れた。

「大丈夫ですよ。それなら僕がもう用意していますから」

ぞくりとした。この子、私が思う以上に大人なんだわ。

「よ、用意って」

「気になるなら先に出しておきましょうか」

彼は立ち上がり、壁際の棚から巾着袋を取り出した。中身を取り出した彼は、それをカゴの中に広げた。

「ね、ここに用意しておきましょう」

カゴを見下ろした私の口はあんぐりと開き、閉じ方を忘れてしまった。な、なんなのこれ。

「これは……」

もう一度私の前に膝まづいた彼は、白いものを手に取って見せた。

「下着です」

「ちょっ、ちょっと」

「パンツですよ」

「パンツ!?」

あまりの驚きに声が裏返った。これまでとはまるで違う驚きだった。

「冗談じゃないわよ! どうしてこれが私のパンティなのよ!」

「今日からこれにしましょう。Mサイズを選んでおきました」

「バカにしないでよ! こんなの履けないわよ!」

「ちょっと大きいですかね」

「そんなんじゃないわよ! こんなダサいの、こんなダサいの」

私は立ち上がった。

「履けるわけないでしょう!」

浴室を飛び出すと、私は夢中で通路を戻った。冗談じゃない、冗談じゃないわ!

「ひどいわ……」

通路の角に身を寄せ、私は両手で顔を覆った。その気にさせておいて、あんなダサい紙みたいなデカバンを履けだなんて。ひどすぎるわ。

「大丈夫ですか」

女性の声がした。

「大丈夫なんかじゃないわよ……」

手のひらの中で声がくぐもった。

「私……ランジェリーに一番こだわりがあるんだから……」

少し間があってから、相手が言った。

「こだわりがあるんですね。どんなこだわりですか」

「そんなの、あなたも女なら分かるでしょう……」

「えっ」

「どんな女性でありたいかは、ランジェリーが教えてくれるのよ」

「ランジェリー……」

私は壁を背にして彼女に向き直った。

「見えないところほど、美しくあるようにしなさい」

「見えないところ」

「そうよ。女はランジェリーと心。このふたつの美しさにこだわると、他も自然と美しくなるものなの」

「そうなんですか」

まだ若そうに見える相手は、赤べこのように深々と頷いてから遠慮がちに口を開いた。

「あの……」

「なに?」

「ランジェリーって、どうやって選んだらいいんですか。私、そういうの無頓着で」

彼女はジャージのズボンのウエストを開いて中を覗いた。

「やめなさい。みっともないわね」

ぺろりと舌を出した相手に私はため息をもらした。

「しょうがないわねえ」

そう言いつつ、彼女に似合いそうなランジェリーを私は思い浮かべていた。

悪くない。ランジェリーの選び方を知りたいなんて、悪くないわ。女はいくつになっても女なのよ。

※この物語は、介護施設での場面を描いたフィクションです。

【あとがき】
ケアをするにあたって同性と異性のどちらが良いかはあくまで個別のものですが、高齢になるほど性別への認識が薄れる場面が多いように思います。

また、紙パンツをまじまじと眺めながら『とうとう私もこんなものを履くようになったのか』と言われた方にハッとさせられたことがあります。高齢になればみんな履くもの、という認識がかつての自分の中にはありました。

その認識は本当に当たり前なのか? それを決めるのが受け取る側であったとしても、『認知症だから分からないだろう』『寝たきりだし、何も言わないから嫌ではないのだろう』という認識が当たり前でないことは言うまでもありません。

悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは誰もが持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。より深い理解のため、物語の力を私は知っています。

※この物語は2017年11月に書かれたものです。

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阿部敦子
私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。