認知症介護小説「その人の世界」vol.28『疑える人』
何やらひそひそと話しながらこっちを見ている人たち。私のことを言っているんだと思うけど、すごく感じが悪い。
言いたいことがあるなら私の前ではっきり言えばいいのに、いつも離れた場所で集まって話している。中には私のほうを指さす人までいるし、どうも穏やかではない感じ。
「ねえ」
テーブルの脇を通った男の子の腕を私が掴むと、相手は立ち止まって両腕に積み上げたタオルを抱え直した。
「どうしました」
「あのね」
私が声をひそめると、男の子は腰をかがめて耳を寄せた。
「あそこにいる人たち、何か私のことをずっと言ってるでしょう」
「そうなんですか」
「そうよ。だってみんなこっちを見ているし、指をさしたりするし」
「そうなんですか」
「そう。私、指をさされるようなこと何もしていないのに」
「うーん……」
男の子は腰を伸ばすと、向こうの集団に目をやった。ふたつ離れたテーブルでは、いつも私の噂をしている4人のおばあさんたちが話に花を咲かせていた。
「気にしない方がいいですよ」
3軒となりの夫婦喧嘩の話みたいに男の子はそう言って、私に視線を戻した。
「気になるわよ」
「何も悪いことをしていないんでしょう」
「そうだけど」
「だったら、堂々としていたらいいじゃないですか」
あまりにも爽やかに言われ、私は言葉を失った。ねっ、と笑顔をつくった男の子の後ろ姿を見送ってから、私は立ち上がった。
「お部屋に戻ろうっと」
気にしていないふりをして、例のテーブルの横を通る。4人は顔を寄せ合って小声で話をしていた。私に聞かれないためなのだろう。
名札の下がったドアから部屋に入る。ドアに鍵はついていない。
「よいしょ」
ベッドの端に腰を下ろす。枕元のリモコンに手を伸ばしてみて、テレビをつける気分ではないことに気づく。
「そうねえ……」
何となく床頭台の引き出しを開ける。引き出しにはいつも飴玉と目薬、娘の写真、お気に入りの小説が1冊、それから財布が入っている。
「あれ?」
財布がない。
「おかしいな」
奥まで手を入れて探るが、何も手には触れない。残り2段の引き出しも同じだった。
「どうして」
手のひらを胸に当てる。考えごとをする時の私の癖だった。
ここでは財布を使うことがない。飴玉や目薬を取り出す時に存在を確かめるだけ。
「だとしたら……」
私以外に引き出しを開ける人はいないのに、どうしてなくなったのだろう。財布が勝手に歩き出すわけでもないし、誰かが持ち出すことも……。
「あれ?」
誰かが……。
そういえば、部屋の鍵はかかっていない。入ろうと思えば誰でも入れる。
「まさか」
盗られた?
私は指先を唇に当てた。これも昔からの癖だった。
「そんなこと……」
ないとどうして言えるだろう。疑える人などたくさんいる。エプロンをつけた若い人たちはノックもせずに自由に入ってくる。お掃除の人も勝手に入ってくるし、他のお部屋の人も間違えて入ってきたりする。
「それより」
私には、もっと疑える人がいる。
「あの人たち……」
そう、あの4人の誰か。
「嫌がらせ?」
ないとは言えない。あれだけ私の噂をしていれば、あることないこと言われているに違いない。私のいない隙に部屋に入り込んで、噂の材料にすることもあるかもしれない。そうなれば財布を盗られたら私がどうなるか、興味本位で試して面白がったりもするだろう。
「どうしよう……」
大騒ぎすれば相手の思うつぼ。けれど黙っているわけにもいかない。子どもみたいなことだって、暇な大人はするものだ。いちいち付き合っているのもばかばかしいけれど、盗られたのは飴玉ではなく財布なんだ。
「ちょっと」
部屋を出てすぐに出くわしたお姉さんに声をかけ、私は手招きをした。
「どうしたの」
エプロンのお姉さんは私に近寄り、膝を折って背の低い私に目線を合わせた。
「あのね、財布を盗られたのよ」
「え?」
「私ね、ずっと引き出しに財布を入れてたんだけど、さっき見たらないのよ」
「どんな財布?」
「茶色の、折りたたむやつ」
「どれどれ」
お姉さんは私の部屋に入ると、隅々までひと通り見て回った。
「ないねえ」
お姉さんは両手を腰に当てた。
「そうなの。でもね、盗った人は分かってるの」
「え?」
「いつも私のことを噂しているあの人たち」
「あの人たち?」
「そう。いつもごはんを食べる場所で、私のほうを見て話している人たち。私、あの人たちに嫌われているのよ。だからこれは嫌がらせよ」
視界がにじんだ。何の涙か分からない。
「うーん……」
お姉さんは少し考えてから、私に向き直った。
「ちょっと一緒にいいですか」
歩き出したお姉さんの背中を追い、私は部屋を出た。お姉さんは私と並ぶと、私の肩に手を回した。
「こんにちは」
立ち止まったのは、例のテーブルの前だった。私はすっかり驚いて逃げ出したくなった。そうしなかったのはお姉さんの手が肩に回っていたからだけど、どちらかと言うとそれは抑制ではなく安心感だった。
「皆さんが楽しそうだから、混ぜてもらいたくて」
ああー、と言って4人は笑い、そのうち2人が椅子を運んできた。
「どうぞどうぞ」
「ありがとうございます」
お姉さんが坐ったので、私もそうすることになった。
「いつも楽しそうですね」
お姉さんが興味津々といった素振りでテーブルに肘をついた。世間話よー、いつも同じ話よねー、などと4人は口ぐちに好きなことを言った。
「私たちね」
ひとりが膝の上で両手を揃えた。
「この奥さんのこと、いつも話していたの」
察するに、どうやら私のことらしかった。
「ほお」
お姉さんが目を丸くした。
「どんなふうに?」
「あのね」
口を開いたのはもうひとりだった。
「いつも遠くから見ていたけど、何てきれいな奥さんでしょうねって」
「おお」
「まるで女優さんみたいねって。高嶺の花って、ああいう人のことを言うのかしらねって」
更に別の一人も口を挟んだ。
「そうそう。私たちなんて相手にされないでしょうねって」
「そんな……」
誰よりも驚いたのはこの私だった。
「そうだったのね!」
お姉さんの声が一段高くなった。
「じゃあ、今度からこっちの席にしましょうよ」
「えっ」
私の戸惑いを察したように、お姉さんは私の背中に手を置いた。
「だいじょうぶ。席なんて決まっていないのよ。これまで話し相手のいない席だったけど、賑やかなのもいいですよ」
4人のうちのひとりも身を乗り出した。
「よろしくお願いします。近くで見るとなおさらきれいねえ。ねえねえ、どんなお仕事していたの?」
「雑誌で、ちょっとしたモデルを……」
「わあ、すごい!」
私がはにかんで俯くと、それぞれに笑みがこぼれて空気が和んだ。
その時の私は、財布のことなどもう忘れていた。忘れていたのは財布ではなく、疑うことだったのかもしれない。
※この物語は、介護施設での場面を描いたフィクションです。
【あとがき】
物がなくなって身近な人を疑い、周囲の人が説明をしても納得せずに事実だと思い込むことを、専門用語では『物盗られ妄想』と言います(vol.12でも書きましたが、私はこれに“いわゆる”をつけています)。修正がきかない状態を指しますので、今回の本文のエピソードだけではこれに該当するとは言えないのかもしれません。
物盗られに限らず『いわゆる妄想』について私が関わる時に一番意識をするのは、その人がどのくらい淋しいのかということです。介護現場では『本当に財布はあったのか、なかったのか』という話になりがちですが、今回そのやり取りを書かなかった理由がここにあります。
心を許せる人がいないひとつの集団において、周囲の人たちばかりが仲良さそうに見えた時、その居心地の悪さは容易に想像できます。それは在宅においても同様で、自分をのけ者にすると感じる誰かの存在や、一人暮らしであってもよく訪ねてくる人に嫌悪感があると『いわゆる物盗られ妄想』は起こりやすいように思います。
まさかあの人がそんなことをするはずがない、と思えるような人々に囲まれていたなら、そもそも疑いすら抱かないでしょう。認知症状態における『いわゆる妄想』は、孤独や淋しさそのものであると私は考えています。
悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは誰もが持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。より深い理解のため、物語の力を私は知っています。
※この物語は2017年9月に書かれたものです。