記事一覧
認知症介護小説「その人の世界」vol.30『変わるもの変わらないもの』
家が、見つからなかった。
歩いて歩いて、ずっと歩いて、日が暮れるまで歩いて、でも見つからなかった。
「乗ってください」
若いお姉さんが車のドアを開けた。乗るしかないのだろうと思った。どこなのかも分からない舗道の縁石に腰を下ろした私の膝は立ち上がろうとすると笑い出すし、持っていたはずの財布もいつの間にか失くしていた。
「探しましたよ。ずいぶん歩いたんですね」
運転席でお姉さんがよれよれの声
認知症介護小説「その人の世界」vol.27『娘はどこにいる』
俺には確か娘がいる。
大事に育てたつもりはあるが、あいつはそんなこと感じちゃいまい。それが証拠に、今はどこで何をしているか分からない。心配したところでどうせあいつは戻らないだろうし、俺の顔なんか見たくもないと言うかもしれない。
言い訳するつもりもない。俺は代々受け継がれてきた酒屋の歴史を守らなければならなかったし、商売の厳しさは言葉より背中で教えてきた。あいつが生意気なことを言えば時に殴ること
認知症介護小説「その人の世界」vol.25『私に言わせれば』
【まえがき】
今回の物語は、前回の物語(認知症介護小説「その人の世界」vol.24)と全く同じ場面を描きました。主人公は、前回の主人公の隣の席にいた女性です。ふたつの物語を並べて読み比べると、新しく広がる世界があるでしょうか。
【本文】
こういうのが一番困るのよ。
何をきいても返事をしない。せっかく教えているのに、覚える気があるのかないのか分からない。
私、女学校の頃は学級委員だった。人をと
認知症介護小説「その人の世界」vol.24『できることもあります』
もうどこにも行きたくない。誰にも会いたくない。
私には馴染みの集まりがあった。この地域に引っ越してきた8年前から地区の婦人会に入っている。夏祭りやどんど焼き、防災訓練など、地区のあらゆる催しを手伝う。古くから仕切ってきた先輩の女性たちはとても親切で、何も分からない私でも自然に打ちとけることができた。8年も経てば活動の流れもよく分かっているし、すっかり生活の一部になっている。
ところが先月、娘が
認知症介護小説「その人の世界」vol.23『わたし、味わっている』
【まえがき】
阿部さま
お世話になります。世の中誤解があるのですが、胃ろうなど経管栄養の方のお楽しみ食は、アイスクリームではありません。お食い締め(看取りの方への最期のひとくち)なら良いと思いますが、命をつなぐ段階であればアイスクリームの提供は、ミキサー食以上の経口摂取が可能な方が対象と存じます。
この場合、果実ジュースゼリーや(クリープなし、砂糖はOKの)コーヒーゼリー、あるいは、果実ジュー
認知症介護小説「その人の世界」vol.21『心配なんです』
もうあれから3日が過ぎた。いったんここで宿を取り、翌日からヨーロッパへ骨董品の買いつけに行く予定だった。
息子と私は201号室と202号室に分かれて泊まった。社長である息子は深夜まで仕事をするのが常だったし、私は9時には就寝しないと体調が崩れる。
出発の朝、身支度を整えた私は息子の部屋をノックした。返答がないので、ねえ、と言ってもう一度ノックする。やはり返答がない。
引き戸のドアに手をかける
認知症介護小説「その人の世界」vol.20『私とどういうご関係』
今の時代だとペンションていうのかしら、こういうの。
要するにお泊りする所なのよね。お部屋におトイレがついていて、食事は決まった時間に食堂でいただくの。お風呂は共有で、順番に入る。
昔からたまに家を離れてひとりで過ごすのが好きだった私は、近場でも宿を取ってのんびりするのが趣味だった。孫と同居するようになってからは特に、家族が気をつかって定期的に宿を手配してくれる。
今の私は行きつけの宿がふたつ