【#1-6:散策コラム-うさぎ島入口に残る遊里跡を訪ねて-】
0.はじめに
皆様、お久しぶりです。Setono_unknownです。
秋も深まって参りました。ここ最近更新頻度が少なくなり、サボり癖が付いたのかと内省している今日この頃です。
さて今回は広島県竹原市の一角にある忠海地区にて遊廓跡を散策しました。この町は「うさぎの島」で有名な大久野島への入り口として知られています。かの島では毒ガス製造のダークな面が知られていますが、その目と鼻の先にある忠海の地も嘗て歴史の負の側面を背負っていました。
1.訪問の目的
私個人の最大の目的は”もう一段ディープ”な負の側面を残す建築物、妓楼跡を記録する為です。
同時に妓楼の存在理由を考察するとその背後に浮かぶ旧軍との関係性が浮かびます。その結果、この地が軍隊と性の関係性を証明する場所となるのです。
これによってよりダークな歴史の奥底が見えてくるのでは?そう考えながら、道を進めます。
この地を訪問する多くの人は大久野島のうさぎとの触れ合いが最大の目的でしょう。子ども連れやカップルとインバウンドの流れは最寄りの忠海港の船着場へと流れる中、一人目的の地へ向かいます。
2.忠海の近代史-軍事施設設置の経緯-
この地は平安時代に平忠盛がこの地を平定して以来、安芸国の東端の漁村として営みを続けていました。
それが一変するのが明治時代以降の激動の時期です。近代に入り、海を制する国が世界の強者となる時代となります。それに伴い、日本も各地に砲台を備えた要塞を配置しました。
-1-芸予要塞の設置
その一つが”芸予要塞”です。これは京阪神地区の防衛を目的に愛媛県大三島と大久野島に砲台を設置したのです。その司令部がこの忠海に置かれました。(1889年)
当時は砲兵大隊が駐屯し400-500名がこの地に赴任した
と記録されています。
その後、日本の海軍力増加によって要塞は廃止されました。これまでの内洋に誘導して迎撃から、外洋にて艦隊決戦が主流の作戦になった為です。
-2-補給処への変遷
その後、世界情勢の変化に伴いこの地に必要とされる役割も大きく変貌したのです。WW1を経て総力戦の中で大きな戦果を上げたのが”毒ガス”でした。これの製造場所として忠海の向かいの大久野島が選定されたのです。それに合わせてこの地は”毒ガス工場の兵站(バックヤード)”
としての役割を与えられました。
ではそこで必要となる補給とは?
①食糧、水
②製造物資、調達
③人員
⓸福利厚生
大きく区分するとこの様になります。
遊廓は④に該当しますね。
※残酷ですが、当時の人権感覚に基づくと異常とは言い切れないのでしょう。
3.遊廓の概要について。
訪問先の忠海遊廓について『全国遊廓案内』
(昭和五年)には以下の記載があります。
■「貸座敷は目下四軒で、娼妓は約二十人」
比較的小規模ですが確かに存在していました。
次いで営業開始時期ですが、これは先述した砲兵大隊司令部開設に
合わせた1899年との事です。
当時の部隊は広島県の宇品にあった物を移転した為、見知らぬ土地の男が多数流入する=治安の乱れが不安視されました。正に”軍隊あるところに遊廓あり”の法則です。
4.誰が誘致、開設したのか?
一般的に戦前の遊廓では楼主以外に娼妓の斡旋を行う”周旋業”が存在し、地元の実業家や有力者が担うことが大半でした。彼等の動機として
前述の治安維持以上に関心があったのが地元経済の活性化です。軍人軍属の単身男性が赴任地で消費行動を行い、需要を喚起する事が期待されました。遊廓もその一つでした。
そしてこれら周旋業者の名簿は都道府県別に『商工人名簿』として明治から昭和までリスト化されています。
しかし、この地の担当者は残念ながら掴めませんでした。(※広島市、福山、尾道は記載ありでしたが…。)
故に現段階では直接に開設に関与した人物は把握できませんでした。今後、更なる調査を行いたいものです。
5.跡地へ。
それでは跡地の現在の様子をご覧ください。
これらを横目に進むと見えてきました。
-1-元朝日楼
一箇所は旅館業として活用されていると聞いていました。どうやら
この建物の様です。
元の名を『朝日楼』と言い、この地で最も大規模な遊廓であったそうです。
今も旅館として使われていると聞き、ダメ元で内部見学を申し出ましたが断られました。紹介が必要である為です。流石、元妓楼だけありますね。システムまで踏襲とは…。
しかし、ここで食い下がっていいか?そんな自問自答をしながら、手にしているカメラのレンズ交換を始めた自分がいました。望遠レンズを付けると”良いところ”まで撮れるのでは?と…。
その結果が以下になります。
なんとか正面の部分的姿を捉える事に成功しました。
すると、「裏も見たい」の衝動に駆られて直ぐに裏手に周り撮影したのです。
以上が元朝日楼の現状でした。
もしここに入られたまたは宿泊されたご経験のある方はぜひお話を聞かせて頂きたいものです。
-2-長屋の遊廓跡
元朝日楼の横に位置する長屋も嘗ての遊廓跡です。
以上が長屋の遺構でした。
遊廓営業当時、大久野島を始めとする芸予要塞から忠海港に戻るとここが煌びやかに輝く場所であったとのお話も聞けました。
だだしそれは外部からの利用者や地元民の視点の話に過ぎません。ここで働き、消えて行った遊女達の声や記録は誰も知らないのです。それを示すのはこれら遺構のみなのですから。
6.まとめ
今回の散策は以上です。貴重な時間を割いて長々とした文章を読んでくださり、ありがとうございました。今回のパターンは”軍隊と遊廓”の基本的関係に基づく散策でした。
これに関連し、近代史の戦争を考察する際に度々用いられるのが
加害者と被害者の二分割の立ち位置です。
しかし、それは適切な分類なのでしょうか?
取り分け、ここの遊廓で働いた女性たちはそのどちらでもない可能性があります。但し、”貧困”の犠牲者ではありますが…。
この様に歴史的事象に関連する当時の人々の立ち位置を分解、再考後に遺構を散策すると歴史の奥深さと複雑さを考えさられました。
引き継ぎ建築物、その遺構を基に過去に生きた人間たちの軌跡に思いを馳せたいものです。
お読みいただきありがとうございました。
また次回に宜しくお願い致します。