パラダイム
自分の場合、店を開くときに日本政策金融公庫から融資を受けている。資本主義の国だから、融資とはお金を必要とする者に貸し資金を融通することで利息を取ることで相互利益を生む投資である 。
融資を受けると当然返済が発生する。返すことを義務と捉えるとすごくネガティヴ思考になる。返済がなければと嘆くのはそもそも計画が間違っていたのだ。
国が自分の事業計画に賛同し投資してくれた、いわば応援をしてくれているのだから感謝と捉えれば何の苦にもならない。というのがパラダイムを変えた見方、捉え方だ。
世界的規模のこのコロナ禍時代。人は様々な一方的な抑圧を受け、均衡を崩している。経営者と話しているとネガティヴな発言が出がちだ。何が正しいかがわからない時間が続きている。自分で正しいと思う道に、時には航路を進むしかないのだ。
大事なこととは重要で欠くことのできない物事の存否に関わる様である。今回の事に置き換えると人間が人間として存続できるかどうかという事だと考えられる。であるからしてこのコロナ禍での感染拡大防止に努力をすることはごく自然な人としてのやるべき事なのだ。
大切なこととは最も必要であり重んじられるべき重要な様である。ではそれは何かといえば人間が人間らしく生きて行けることだ。人間の尊厳が保持される生活状況を意味し、 人の意思なくして生命さえ維持されればよいという事ではないのだ。
日本国憲法には基本的人権の尊重が保障されている。第25条「すべての国民は、健康的で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」そして「国は、全ての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」とも書かれている。
現状はどうかというと読者の皆さんが想像し、考えてもらえば良いと思う。しかし、こんな時こそパラダイムをよく考えないと過ちを起こすことになる。物の捉え方というものは時に見え方が変わる事がある。見え方、考え方はそれぞれの育ち方や生き方で違う。誰が正しいとか間違っているという事ではないのだ。それぞれの人の見え方によるのだ。
パラダイムシフトを語るときによく用いられるのが、「天動説」「地動説」だ。現状では地動説が正しく、天動説が過ちだとされている。文明が開化されてくることにより確かに証明されそれで間違いないのだが、「正誤」「善悪」にすべて分かれる物でもないファジーな部分もあっていいのだ。
誰かを批判したり、攻撃することは一番に愚かなことだ。また意図せずとも相手に誤解を招き傷つけてしまうこともある。なぜ自分の想いを、気持ちをわかってくれないのかと嘆いていることは時間の無駄だ。そもそもそれぞれが唯一無二の人間であるからして解るはずがない。自分がどう受け取り、どう判断し、どう決断するかでしかない。常に人はひとりなのだ。
ではひとりだからといって誰とも関わらずに生きていけると思うとこれはまた大きな過ちを犯すことになる。でも人に寄り添ってと言うがそんな驕った気持ちを持つから相手に理解されないし、理解できないのだ。それは甘えだ。相手のためになると思って言う事は自分の見え方であり、言うべきではない。ただ批判ととらえられ傷つけるだけだ。相手の視線に立ち、相手が笑顔になる事を想像して発言しないといけない。
均衡を失っているこの有事であるからこそ充分に気を付けないといけない。日々毎朝唱える念仏の中に十善戒がある。十善戒は実践行であり普段から心得て行動すれば皆が笑顔になるという教えである。
不殺生(ふせっしょう)むやみに生き物を傷つけない
不偸盗(ふちゅうとう)ものを盗まない
不邪婬(ふじゃいん)男女の道を乱さない
不妄語(ふもうご)うそをつかない
不綺語(ふきご)無意味なおしゃべりをしない
不悪口(ふあっく)乱暴なことばを使わない
不両舌(ふりょうぜつ)筋の通らないことを言わない
不慳貪(ふけんどん)欲深いことをしない
不瞋恚(ふしんに)耐え忍んで怒らない
不邪見(ふじゃけん)まちがった考え方をしない
先人たちは常に道を示してくれている。今こそは、十善戒を心がけて生活せねば生き残れぬ時代なのだ。未熟で修行不足だと自分を戒めるしかない。「正誤」「善悪」にすべて分かれる物でもないファジーな部分があってそれを確かめられる時間はまだ少しはあるはずだと信じて生きるしかないのだ。くだらない言い争いや意見の相違を語っているほど暇はない。