眼の前にあるものを無視していませんか
ふかわりょう さんをご存じでしょうか。私はほとんどテレビを観ないのですが、子供の頃に、ニュース番組かバラエティ番組に出ているのを見かけたことがあります。その時も、なんとなく、良い意味でちょっと変わってて面白いなあという印象を持っていました。私はこの時期からすでに変わり者として浮いていましたし、ちょっと人と違う考えや世界観を持っている人が好きだったので、コラムの文章とか、ラジオでのコメントとかを見聞きして、面白い人だなと思ったのでしょう。
その後、ますますテレビなんて見なくなり、芸能人で誰が有名かもわからないレベルにまで芸能から遠ざかっていた私ですが、先日、妻がこんな記事を教えてくれました。
人の「いいね」よりも、自分の「いいね」がひとつあればいい。-本当に心地よい言葉だなと思います。
最初の記事あった「スマホを置いて散歩しよう」もそうですが、私たちは情報に触れすぎているようにも思えるんですよね。SNSだって、20年前は普通の人の普通の日記みたいなブログが多かったのに、いつのまにか「○○の真相」とか「○○の情報」とか、「○○しないと損する」とか、そういうものになってきています。ツイッターなんかも、当初はただ人のつぶやきが垂れ流しになっているだけだったのが、いつのまにかイデオロギーの対立や他人をあおる文脈で使われるようになるなど、人を攻撃する道具になってきている感じがしますね。科学が平和的に利用されなくなるような、そんな流れを感じるのです。
他人が何を言っているか、何を考えているか、そんなに気になりますか?と、人に無関心の私は思ってしまいます。別に他人がどう思っていようが、他人がどう評価していようが、自分は自分なんだし、どうでもいいじゃないですか。そんなことを繰り返し思う毎日です。
散歩と同じように、人間がすっかり忘れてしまっているなあと思うのが、食事を楽しむこと。食卓にテレビがあり、全員がテレビの方向を見て、テレビに夢中になって、提供された/作った料理のことなど眼中にないような食卓が少なくないですよね。ドラマやアニメでさえ、食事中に「食」に言及する場面はほとんどなく、食以外のことに話題の中心が向きますよね。なんで?って思います。下手したら、外食しているときでさえ、食に関心を向けなかったりしますよね。食べログとか見て来ているくせに、ただそこに行ったことをSNSに載せたいだけで、出された料理とかには一切興味がないってこと?って思います。
実家にいた頃、苦手だったのは、食卓で必ずテレビを見ることです。だいたいバラエティかドラマを観るんですよね。テレビを観たい人がチャンネルを選ぶ権利を持つので、私以外の誰かが観たいテレビになるわけです。そうすると、ご飯を食べながら、ひたすら家族がテレビ画面に映る人間模様を観るわけですよ。険悪なシーンや気持ちが暗くなったり嫌な気分になるものもあるわけです。みんなテレビに夢中で、作ったご飯が美味しいとかそういう話をしない。
当時ご飯を作っていたのは母親でしたが、母親でさえも、テレビに夢中でしたからね。作っても見向きもされずにテレビばかり観られて、よく作る気になるなあって思ってました。私はテレビや芸能人なんて全然興味がないので、ひたすら考え事をしながら食べていましたし、これはどんなレシピなんだろうって考えていました。
実家を出て一番良かったことは食事中に嫌なものを観なくて済むことですね。本当に良かったと思います。テレビが生活の中心にあるってすごい嫌だったので、本当によかったです。本を読んだり動画制作をしたり文章を書いている時間のほうが好きですね。消費にはほとんど興味がなくなってしまい、それが加速した気がします。
だからカップルが「デートのときに映画を観る」みたいなのも、私にはイマイチ楽しさが分からないんです。黙って映像を観ているだけなら、それぞれが別々に観て後から感想を共有すればいいんじゃないかと思ってしまうんですよね。一人でいるからこそ、いろんなことを考えるし、それを交換することでプラスになる。空白を受動で埋めることって高度成長期以降、あたかも生き方のスタンダードみたいに捉えられていますが、空白を楽しむからこそ、人生に独創性が出るんじゃないかなと、思うんですがね。
ふかわさんの考え方、いいなあ。押し付けがましくもないし、損得もマウントもないし、優劣もない。他人の目なんて気にせず、黙々と今日できる楽しみを噛み締めて歩けばいいだけなのに、なぜ人生をこうも複雑にしたがるんでしょうね。人は。