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松本市で戦時下を過ごした姉妹への聞き取り(下)ー教育勅語も覚えたが意味は知らなかった

 戦時中を長野県松本市の国民学校で過ごした姉妹からの聞き取り、続きです。当時の学校生活や終戦前後のことをまとめました。下写真は、お話しの中に出てくるすり鉢状の穴。これは茨城県土浦市の真鍋国民学校の「航空走路」に設けた「旋回壕」。落ちれば戦死ということにして回っているうちに空中格闘もでき、めまいもしなくなるという狙いがあったようで、これが付属国民学校にもあったということです。

(昭和19年9月20日発行 写真週報339号より)

 姉・1941(昭和16)年春ー1945(昭和20)年3月まで、松本師範学校付属国民学校の3-6年に在籍
 妹・1941(昭和16)年春―1946(昭和21)年3月まで、同校の2-6年に在籍。いずれも長野市在住(2018年5月12日・聞き取り当時)

戦時下の学校生活について
 【姉】・登校スタイルは、防空ずきんのひもをたすきにななめに、そしてカバンも斜めに十字にかけていました(いつからか、未確認)。私が3年のころは、マレーも陥落して、みんなわいていて、勝つのだと思っていました。校長がちょっと授業の時に問題になるような発言をして呼び出されていた、といったこともありましたが。
 【妹】・シンガポール陥落では、昼に護国神社へ参拝に行きました。夜には駅から護国神社への市民の提灯行列がありました。

 【姉】・運動会も軍国調です。女子は竹とふろしきで担架のようなものをつくり、新聞紙で作った看護士の制帽をかぶって、体重の軽い子を載せて運ぶこともやりました。4,5年生ころだったと思います。また、校庭のはしにすり鉢状の大きな穴(上写真参照)が掘ってあり、このヘリを落ちないようにぐるぐる回って走ることもありました。飛行兵のバランス感覚を養うとか。また、手旗信号を連隊の将校さんが教えてくださいました。そして、朝礼の時に、何人かがみんなの前で実演します。わたしも「ガクトドウイン」とかやりました(実演してくれる)。
 【妹】・「ヨイテンキ」とかね。
 【姉】・お昼休みを使って、電信の練習もして覚えました。

 【妹】・勤労奉仕で、陸軍病院の隣にあった産業試験場で、桑の枝の皮はぎをしました。暑いのに、大きな釜で煮て、それを汗だくではいだのです。軍服の材料になると言われて。

桑の皮はぎに熱中する国民学校児童

 【姉】・軍服のボタン付けもやりました。慰問袋も作りましたね。「兵隊さんお元気ですか」って。もう、決まり文句で次々と書いていきましたね。たまたま親戚の手元に届いて写真とか帰ってきたこともあります。
 そういえば、修学旅行の積立していたのに、旅行なくなっちゃったんだよね。あのお金、どうなったのかな。
 【妹】・燕岳登山はありました。甘いものがないころで、乾パンの配給(有料)が登山の当日。前日の夜に親が配給所だった開運堂まで行って、持たせてやりたいから何とか早めですが渡してくれないか、とお願いに行ってくれた。ふだん通っていないところだったけれども、何とかしてくれた。

 【姉】・乾パン、甘味があったのですよ。昭和18年ごろから、急に物は不足してきましたね。庭にあった柿をむいた皮を干してとってあった。これがとてもおいしかった。甘いものといえば、そんな程度のものしかなかった。でも、五年生の時に将校さんの家の友だちの見舞いに行ったら、コーヒーに角砂糖入れてくれたり、イチゴに練乳かけて出してくれたり、シーツも真っ白でびっくりしました。
 【妹】・軍隊の出入り業者の家なんかは裕福でしたね。常会でみんな集まるとき、皆が提灯を持ってきているのに、その業者の奥さんは懐中電灯だったとか。

 【妹】・毎月8日は大詔奉戴日で、日の丸弁当と決まっていた。みんな、麦や高粱の真ん中に梅干し一つ。一緒にいた教生さんが蛹の煮物くれたけど、あれ、いやでした。
 あと、疎開児童としらみの話はよく出ますが、私たちも同じでした(石鹸の配給割当=有料=が細って不衛生になってきたことと関係するのだろうか)。朝礼の時、朝日で頭が温まってくると、首のほうにシラミが下りてくるのですよ。すると、列の後ろの子がそれをとってくれる。みんなそう。話なんか聞いていないですね。
 【姉】・休み時間にもシラミとりっこをしていましたね。サルみたい。
 【妹】・回虫の駆除もあって、校使さんがカイジンソウという薬草を煮て、それでコップ一杯飲むの。いやだけど、またそれで(回虫が)出ましたね。
 【姉】・朝礼の話に戻ると、倒れる子が必ず何人もいるのです。栄養不足だから。でも、それがアクセントになって、緊張感がほぐれる。その時は話きいていなくてもいいと。勅語も3つあって、みんな覚えました。でも、意味なんか分かりません。教育勅語の「夫婦相和し」だって「夫婦はイワシ」としか覚えていない。

教育勅語全文

 【姉】・それでも日本は勝つと思っていましたね。ある時、先生が公開授業で「日本が勝つための使命はだれが背負っているか」と質問してきて「私たちです」と答えると殴られる。分からないから次も「私たちです」というと殴られる。「私です」と答えた子がいて、そこから殴られなくなった。他人ではなく自分で、ということだったのでしょうが、ひっぱたかなくてもね。とにかく、よく殴られていましたね。

 終戦前後のこと
 【姉】・終戦の8月15日、父はモーニングを着て家じゅうに香をたいて、そして放送が始まるとラジオの前に伏し拝みました。すごく雑音が入って、内容は全然聞き取れませんでしたね。それまでの空襲の放送とか、ちゃんと聞こえたのに。負けたとはその時、分かりませんでした。
 【妹】・朝ごはん前に近くのお風呂に入れてもらい、帰るとき、大人たちが今日は天皇の放送があるんだ、日本が負けたんだよ、と話しているのを聞きました。
 戦後になると、落下傘の布で作ったスカーフやシーツをもらったりしました。飛行兵が泊まっていた旅館の関係ですかね。シーツは絞り染めとかしていました。しばらくすると、進駐軍が街中に立っていました。(学校では)何でもノーと言えと教えられました。ランドセルの中身を見せろとか言われたこともあります。でも、ガムやキャラメルもらう子もいました。
 【姉】通学路沿いに護国神社があって、戦争中は婦人会が草刈をしていたんですが、それもなくなり、草ぼうぼうになったのを覚えています。
           ◇
 形式的な教育の姿が目に浮かびます。一方で、歌や型にはめた授業によって、しっかり軍国少女が育った様子。理性ではなく叩き込み判断させない、というところから、国家に従順な国民がつくられていくのでしょう。

 戦後の教育も暴力はなくなり内容は変われど、これをなぞってきただけのような気がしてなりません。教育基本法も変わり、道徳は人権より愛国を教える。忠孝思想の「忠」の部分だけ都合よく使った教育勅語を職員研修に使って開き直る自治体の長が出てくるのが、残念ながら現実です。経済格差も広がるばかり。今度は、何を狙っているのか。国家に従順な国民ほど、特権階級や権力者に都合の良い体制はありませんからね…。
(2024年2月18日・採録)

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