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学童集団疎開は各方面に犠牲や負担を生じましたが、大人が始めた戦争で犠牲になるのは、いつも子どもたちなのです

 新聞には戦局が悪化したとは載らず、ラジオで放送されることもありませんが、戦線が次第に押し戻されていることは、どんなに糊塗しても隠せません。そしてガダルカナル島の撤退が「転進」と発表され、アッツ島で守備隊の全滅が「玉砕」と発表されていた1943(昭和18)年。政府は12月に指定地区の児童・生徒の疎開促進を指示し、1944(昭和19)年6月には米軍のサイパン島上陸を受け、学童集団疎開の基本方針「学童疎開促進要項」「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定しました。
 東京を中心に、縁故疎開の困難な国民学校初等科3-6年を対象として防空のあしてまといになるのを避けること、それに次代の戦力を育成することを目的とした40万人余の「集団疎開」がここに始まります。

 長野県の受け入れは、東京都の世田谷、中野、杉並、豊島、それに足立区の学童で、予定数は36,900人となりました。この人数は、全国で見ても最大の受け入れ人数でした。長野県は温泉地が多く旅館での受け入れが早急にできることや、寺院も多いこと、内陸部に位置していることなどが要因でした。 

別所村(現・上田市)で別所温泉の旅館前に集まった疎開児童
中野区桃園国民学校が疎開した満光寺(現・伊那市高遠)

 長野県では1944(昭和19)年2月に都市疎開への協力を市町村に通知し、7月には各地方事務所長と市町村長に「帝都学童集団疎開実施に関する件」を通牒して受け入れを正式決定し、受け入れ対策本部を設置します。
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 既に縁故疎開の児童は入ってきていましたが、最初の集団疎開は1944(昭和19)年8月11日、世田谷区の太子堂国民学校と北沢国民学校が現・松本市の浅間温泉に入ったのを皮切りに受け入れが始まり、同年11月の「信濃教育」のまとめだと29,017人を既に受け入れており、教職員を合わせると3万人を超えていました。

別所温泉玉屋前に集合した桃井第2国民学校の児童たち

 長野県の1944年9月の調べでは、受け入れ先が温泉旅館250、普通旅館86、寺院136、料亭・遊郭14、集会所3の509カ所で、温泉旅館が5割、次いで寺院の受入数が3割に上っていました。(ここまでの記述は、昭和2万日の全記録・6、長野県史・通史編9を参考にしました)
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 疎開先の生活については、さまざまな人の体験記や調査が残されています。体験で共通するのは、空腹でした。一気に人が何万という数で移動するわけですから、主食の配給割当の変更だけでも大変だったことでしょう。準備不足のまま地元も受け入れたため、学童用の副食となる野菜の供給なども困難になる状況でした。
 一方、長野県平穏村(現・山ノ内町)に集団疎開した児童が後年に書いた「一子ちゃんの手紙ー学童疎開児の記録ー」(大和田一子著・光書房)では、日記に毎日の食事が書かれていますが、途中で先生から食事のことを記入しないようにと注意され、書かなくなったということです。その一子ちゃんを戦後の1945年11月10日に迎えた母親は「一子の頬はこけ、目は落ち込み、別れた時の面影はございませんでした」と回想しています。

 そして、温泉旅館や一般旅館、遊郭まで使った疎開において、特に女子児童に性病が広がる事態が発生しています。「学童集団疎開史」(逸見勝亮著・大月書店)によりますと、最初の確認は福島県の旅館に疎開していた児童の発病で、1944年9月3日のことで80人中30人がり患、14日には茨城県の旅館で60人中8人、26日には山形県の旅館で74人中45人のり患が発覚するなど次々と発生。経路は一般入浴客やり患していた女児からのものなど、さまざまでした。
 最終的に患者は東京都だけでも28校の1170人に及びました。もちろん長野県も例外ではなく、「別所村の集団疎開学童記」(倉沢美徳著)でも、同様に性病のり患があったことを伝えています。

 さらに、別所温泉では疎開後まもなく、急に容体が悪化するなどして病気で2人が死亡しています。また、長野県では1945(昭和20)年5月30日、上高井郡高山村の山田温泉で、池袋第5国民学校の児童300人と教員らが宿泊していた旅館から出火、児童8人が亡くなっています。このような事故や病気、爆撃などによる疎開児童の死亡は1,000人を超えると言われています。

満光寺で上半身裸で体操をする花園国民学校の児童たち(満光寺にて)

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 そして、いったんは落ち着いた疎開児童たちに、今度は再疎開の指示が出されています。最初は太平洋沿岸部に疎開した学童が、あらためて長野県へ入って来るなどしています。空襲や艦砲射撃の危険性を考慮したものです。
 こちらは、静岡に疎開していた児童が長野へ再疎開して書いたはがきです。文面からは、疎開児童もこの時期(1945年6月15日)には勉強がほとんどなく、勤労奉仕をしていたのが分かります。

静岡県から長野県瑞穂村(現・飯山市)に再疎開した児童のはがき
文面から、再疎開先は縁故疎開か

 さらに、長野県内では県内から県内への再疎開が盛んに行われました。これには複合的な要因がありましたが、まず軍隊の疎開、軍隊の療養所の確保、軍需工場の疎開とそれに伴う労働者の宿舎確保といった理由がありました。ほかにもし尿の処理能力を超えているといった理由や、食糧の供給の便宜といったものもあり、長野県では「防衛強化」15,580人、「食糧事情」1396人、その他2265人などとなっています。長野県では疎開児童の66%、3人に2人は再疎開をしたことになります。(「学童集団疎開史」より)。

桃井第2国民学校の授業。この学校も再疎開させられた

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 疎開していた6年生が卒業して東京に戻り、東京大空襲で大在なくなるといった悲劇があったことを考えますと、子どもたちをこうして疎開させたのは、結果として大勢の命を救うことにはなったといえるでしょう。
 しかし、子どもたちをこれだけ振り回し、しっかりものも食べさせてやれない国家とは何でしょうか。こんな国ならいらねえ、というのが正直な思いです。せめて子どもたちが二度と飢えることなく、のびのびと成長する社会を作っていきたい。今も課題はさまざまあります。昔の事と考えず、次世代を大切に育てる方向を誤らないよう、目を光らせ、提案し、声を出していきたい。それが、当時の子どもたちから渡されたバトンのように思えるのです。

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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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