東京ーロンドン間の飛行に世界最速で成功した神風号の操縦士、飯沼正明氏は太平洋戦争開戦直後に亡くなりますが…
民間航空育成の(背後には軍事利用の狙いがあるにせよ)愛国切手の宣伝にも使われた朝日新聞社機「神風号」による東京ーロンドン間の飛行成功(1937年4月6日ー9日)を、朝日新聞社はグラフ誌の発行や模型型紙の作成などで大いに盛り上げました。操縦した飯沼正明飛行士は長野県南穂高村(現・安曇野市)出身で、塚越賢爾機関士とのコンビでこの飛行を成し遂げました。
神風号の名称は、全国公募で決めました。また、使用した機体は陸軍が三菱に発注した九七式司令部偵察機の試作二号機で、民間用として払い下げられたものでした。当時、軍事と民間はいろいろな形でつながっていたのです。同偵察機は、神風型司偵とも呼ばれたということです。
そして神風号が記録を達成した1937(昭和12)年の7月7日、長野県高森町出身の一木清直少佐(当時)がかかわった盧溝橋事件を機に日中戦争が始まります。飯沼飛行士も軍務にかかわっていて、1941(昭和16)年6月には陸軍航空本部嘱託、やがて陸軍技師となり、当時日本軍が進駐していたフランス領インドシナに配置されますが、太平洋戦争開戦間もなくの12月11日、地上での味方機の事故で亡くなります。
しかし、当時は事故という原因は伏せられて死亡が発表されます。国民的英雄となっていた飯沼飛行士の最後を単なる事故にはさせたくないという関係者の思惑があったのでしょう。1942(昭和17)年2月8日付朝刊の朝日新聞には、遺骨が帰国、コンビを組んでいた塚越機関士の手で大阪入りした写真とともに記事が載っていました。「マレーに壮烈空の華と散った陸軍技師(略)故飯沼正明飛行士」とあり、機上で作戦行動中に戦死したと喧伝されていたことが分かります。
さて、死亡原因を伏せた理由は、太平洋戦争下、国内の士気を下げるような話題はできるだけ作りたくなかった軍、政府、そしてマスコミの思惑もあったと思われます。戦局も下り坂となってきた翌年の1943(昭和18)9月20日、日本教育紙芝居協会が発行した国策紙芝居「神風の飯沼正明」で、その架空の戦死ぶりが描かれています。
そして太平洋戦争勃発、志願して軍務に就きマレーへ飛んだとされます。そして重大な任務を果たしての帰途、高射砲弾の破片を受けつつ、基地まで帰還、そして死亡したとされてしまいます。
戦時下、有名人の死までも戦意高揚の素材とされているのです。真実を知らせられなかったご親族の思いはいかばかりか。国民が情報を自由に得られることの大切さ、あらためてかみしめたいものです。
なお、安曇野市には生家に「飯沼飛行士記念館」があります。お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。