代用品に頼る日々でも戦争は最優先で続行ー代用品も兵器優先…
1937(昭和12)年7月7日に始まった日中戦争も、1年を過ぎるころには早くも鉄や綿といった物資を軍需に回すための要項ができ、民間への流通が極力抑えられるようになりました。皮やゴムの製品も同様です。1941年秋には金属回収も大々的にやるくらい追い詰められていたのに、同年12月8日、アメリカなどと戦う太平洋戦争に突入します。
陸海軍の緒戦で必要とする民間輸送船をそれぞれ回すと、民需用の輸送船が絶対的に足りず、作戦が終わったら民需用に戻すようにということで開戦したのですが、なかなか戻ってこなかったり戦没したりで、民間へ回る物資はさらに窮屈になります。南方の資源地帯を占領しても、そこから資源をろくに運べないのです。
既に日中戦争当時から陶器製や木製のさまざまな代用品が生み出され、出回りましたが、これも末期には軍用や、ロケット戦闘機秋水の燃料のうち過酸化水素80%水溶液の製造や保管をするための炻器の製造に追いまくられて民需生産がほぼ停止。長野市では、骨とう品店からもお皿などが姿を消す始末に。下写真が、秋水用の燃料瓶です。本当は厚い蓋を太い金具で上下から挟んでねじ止めするのです。燃料が服に少し付いただけで燃え上がるという、極めて危険なものだったからです。本体だけですがどうぞ。ちなみに、秋水のロケットエンジンは長野県松本市に疎開して試験が行われています。
また、本土決戦用の兵隊の装備にも陶器製手榴弾をはじめとした陶器製代用品が登場でやはり民需代用品へ振り向ける余裕などなくなっていました。本来は鉄片で相手を傷つける手榴弾を陶器製にしたのでは、せいぜい、相手に爆風と陶器の破片でけがをさせる程度だったのではないでしょうか。下写真は陶器製の水筒です。せめてもの着色が切ない。
また、硬貨を作る原材料も、戦争で必要性が高くなるにつれ変化します。最初は弾丸などに使う銅、代用にされたアルミは航空機材料としてまた回収、そして耐久性の低い錫と変化してきました。小額紙幣も出されはしましたが、こちらも紙不足にも陥っている中、とうとう、陶器製硬貨への切り替えが計画され、こちらの増産も産地を手一杯にさせた要因でした。
そんな中で生まれた民間用のさらなる代用品として、信州戦争資料センターが所蔵しているのが、貝のしゃくしです。
こちらは、長野県の伊那谷の民家での出物を入手しました。小さい釘でホタテ貝のような貝殻を固定してありますが、いかにももろそうで使うのに躊躇します。ただ、けっこうオークションなどに登場しますので、それなりの数が作られたとみられます。
貝のところに「実用的代用品」と称したシールをわざわざ貼ってあるところが、そんな不安を吹き飛ばすどころか、増幅してしまいそうです。
でも、まあ、大丈夫。だって、
ほとんど実のない雑炊に使うから(嗤)
そんなざれごとの一つでも出てきそうな状態。このしゃくし、購入はされたものの、未使用でした。それで、やっと戦争は終わったのでしょうか。