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わずかでも空襲被害者に役立った「戦時災害保護法」ー敗戦後に軍人関連の補償制度とともに廃止、軍人関連は恩給など復活するも、空襲関連は復活せず
太平洋戦争突入後の1942(昭和17)年2月25日、将来の空襲被害を予想して、空襲被災者救済のための「戦時災害保護法」が公布され、4月30日に施行されます。これは空襲などの戦闘に絡む被害者に当面の救助、生活援助、給付金を与えるとするもので、防空法で消火活動を義務付けられている臣民の士気高揚に役立つものとされています。
「『逃げるな、火を消せ!』戦時下トンデモ『防空法』」(大前治・著、合同出版)に掲載の「戦時災害保護法小論」(赤澤史朗・立命館法学1992年5・6号)による支給額や実施費用を見ますと、1942年から早速適用されていますので、これは、同年4月18日のドウリットル空襲にも適用されたのではないかと思われます。
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戦時保護法は、
第一条・戦時災害により被害を受けたる者、並びにその家族および遺族にして帝国臣民たるものは本法によりこれを保護す
第二条・本法において「戦時災害」とは、戦争の際における戦闘行為による災害およびこれに起因して生ずる災害をいう
とあります。場所は定めていないので、南洋や中国での戦闘絡みで被害にあった「帝国臣民」たちも救済対象となったでしょう。1943年にも先の「小論」の調べで支出されていて、このころまではこの関係と思われます。
戦時保護法の制定を受け、臣民の空襲における防空法などに基づく行動をまとめた「時局防空必携」も1943年の改訂で「戦時災害保護法」による保護を「空襲による被害の救済と保険」という項目を追加して周知します。こちらは同年7月30日に長野県警察部警防課と大日本防空協会長野県支部が発行した時局防空必携です。しかし記述はわずかで補償内容も記されておらず、あくまで士気高揚のために差し込んだという感じです。
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それと同じころ、1943(昭和18)年8月4日情報局発行の「写真週報」は、改訂時局防空必携写真解説と銘打った特集号を発行します。ここではもう少し詳しく救済について記述していますが、やはり数字など詳細は出していません。
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では、実際にはどう対応されたのか。こちら、熊本市在住で1945(昭和20)年7月1日の空襲で家財全部焼失の罹災証明書で、翌年1月25日に罹災者衣料家具購入費として1000円が給付されています。
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こちら、東京都の罹災証明書。緊急に必要な物資の交換券が付いています。こちらも、罹災者に対する応急救助によるものでしょう。裏面をみると、食糧は5日分が配給されています。
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そしてこちら、長野県飯山町の縁故者の家に疎開していたとみられる男性に対し、1946(昭和21)年2月18日、「戦時災害保護法による給与金」の支給決定書で、給与金は350円とあり、家財給与金名目です。支給は9月9日となっています。実は、この日、戦時災害保護法が廃止され、空襲被害者への援護制度が消滅した日でもあります。消滅前に認定されていたのでこの日に支給されたのでしょう。
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問題は、戦争末期の空襲被害が甚大で、法律があるのに必要な手続きができず、扶助料(1日60銭ー当時の生活困窮者扶助料が50銭なので、それより優遇)や給与金をもらえなかった方たちも大勢いたことです。
GHQの指導で戦時災害保護法も戦時法規として廃止され、福祉関係にまとめられて旧生活保護法の中にくくられます。GHQの指導による戦時法規の廃止で、軍人関係の援助法も廃止されます。
◇
結果として、わずかながらあった空襲被害者への救済措置は消滅します。一方で軍人関係は1952(昭和27)年に戦傷病者戦没者遺族等援護法、1953年に軍人恩給復活となり救済措置が行われますが、いずれも軍人軍属を対象としたものでした。
全国空襲被害者連絡協議会ホームページ「日本の戦争犠牲者補償制度の問題点は、どこにあるのですか」では、上記のような軍人軍属への救済措置について「その後も支給対象は拡大されていったものの、あくまで『お国のための軍務に服した』ことを変わらぬ基準」としていると指摘し「外国人の被害者を排除し、次いで日本国民についても『受忍』を原則としながら、ただ『お国のための軍務に服した』人たちだけには援護」というのが戦後処理の基本だとして、憲法上の矛盾があるとしています。
先の「トンデモ『防空法』」によると、空襲被害者23人が国に謝罪と補償を求めて2008年12月、大阪地裁に提訴し、5年9カ月の裁判は最高裁における敗訴で終わりました。
裁判の過程では、戦時中の国策の退去させない方針、安全性の低い防空壕、国民が空襲実態を知らされない、焼夷弾の脅威を過小に宣伝ーといったことが明確に批判されたと裁判の意義を見出しています。結論は軍人軍属と空襲被害者の格差は「著しく不合理とはいえない」として敗訴になったものの、「防空法や情報統制の問題を認定したうえで、さらに不合理性が重大となれば違憲となりうるという大阪地裁・高裁の判決が、最高裁で変更されずに確定した意味は大きい」(同書)とし、空襲被害者の援護法制定の足がかりになるとしています。
近年、軍備増強の圧力は高まっています。一方で、国内ですら完結していない先の大戦に絡む問題はどう考えられているか。そして国外に与えた損害への姿勢はどう示されているか。そうした「落とし前」を処理することが、戦争準備の前に取り組むことではないでしょうか。
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