少女雑誌も、乙女に軍国主義を沁みとおらせる付録で迎合
大日本雄弁会講談社が発行していた「少女倶楽部」の日中戦争当時の付録をいくつか収集しました。まずは、時期がわりあい分かる、「漢口陥落記念絵葉書」です。
漢口は、武昌、漢陽と合わせて武漢三鎮といわれ、首都南京を脱出した蒋介石が臨時政府を置いた場所です。漢口陥落が1938(昭和13)年10月27日ですので、それから間もなくのもの。宛名側に「少女倶楽部賞」とあるので、付録というより懸賞賞品だったのでしょう。
一方、蒋介石は重慶にあらためて政府を移転、徹底抗戦の姿勢を示していました。占領すれば手を挙げるだろうとの目論見がはずれ、ここから大規模な作戦ではなく持久戦に移行していきます。
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1939年の少女倶楽部新年号付録とみられるのが、こちらの4枚つづりの「皇軍慰問絵はがき」です。
はがきの切手代が2銭だったのは1937(昭和12)年4月から1942年3月末なので、1938年から1942年の間であるのは間違いありません。そして、一枚欠けていた防空演習のはがきに「家庭防護団」とあるのがひとつのかぎ。一般的に空襲に備える防護団が存在していたのは1932(昭和7)年から1939(昭和14)年3月末(その後は警防団)なので、1938年か1939年の正月のどちらかです。絵葉書の内容が比較的落ち着いたものであることから、大作戦の減った1939年正月の付録と推定しました。
では、一枚ずつどうぞ。世間の盛りあがりに合わせて、こうした企画でさらに軍隊への信頼も高まるというものです。そして慰問はがきを送るにも都合が良い時期でしょう。
そして最後に「家庭防護団」。少女もモンペ姿で消火にあたっています。
この防空演習が実戦となった時、逃げずに踏みとどまった人の犠牲は大きかったのです。こうしたちょっとの積み重ねが、そんな悲劇にもつながっていったでしょう。戦地より危険な銃後、それも一方的にやられる最前線となったのです。
ひたすら戦意を鼓舞した先に。それを自覚していた出版社、新聞社はどれだけあったでしょうか。