日中戦争勃発から太平洋戦争終末まで、政府や軍が貴金属を強制買い上げー特攻隊の名前も使って
戦争となると、お金がいります。1937(昭和12)年7月の日中戦争開戦間もない8月6日、金の取引に関する「産金法」が成立し、1939(昭和14)年春には政府が必要ある場合、金製品所有者に処分を禁止し、政府や日銀など政府の指定する者に売却を命じることができるように法改正を行い、その後は自由販売も禁止されました。
政府は金を買い上げましたが、戦争の長期化によるインフレで円の価値が下がる前に、安定した財産である金を政府に集中させて、余力を付ける狙いでした。1939年5月には金集中運動開始に合わせて、個人の金保有状況の調査も各市町村で調査員を使って7月に行われ、後に売り渡しを呼びかける資料となります。
当時の信濃毎日新聞では1939年5月2日「大忙し金回収戦線 長野の初日活況」と報道されています。また、同月末には長野市の貴金属商も金製品を店頭から撤去して回収運動に協力との記事が掲載されています。
長野県では11月に、報告のあった金は既に政府に売却済みでしょうが、もしまだもっていたら「時局の重大性に鑑み」政府に売却をと、報告書付きの書類を配布する手際の良さでした。
その後、貴金属が特に大々的に回収されたのは1944(昭和19)年です。9月から10月には白金が、10月から11月(延長され12月に)には銀の買い上げが行われています。合わせて金やダイヤモンドの供出も呼びかけられました。
政府の情報局発行「写真集報」339号(9月20日発行)では、はっきりした用途を示さずに白金はいろいろなことに使われるとして、決戦のためにと呼びかけています。白金は、ロケット戦闘機秋水の燃料を作るための電極にするのが一番の狙いでしたが、その後の写真集報でも、そのことには触れていません。極秘プロジェクトのためですが、白金回収は大々的に宣伝せざるをえず、分かるところには分かったでしょうが。
そして並行して行った銀の供出は、飛行機の生産に不可欠として呼びかけています。長野県の1944年10月の回覧では「敵は我が表玄関に迫りつつあります」と危機感をあおっています。そして県内各地へ「地方買い上げ班」も出動したほか、12月には今一度のチラシも配布されており、延長された期限の12月31日には割当目標の102%あまりとなったと報じられています。
そして下写真は、長野市が11月に出した銀、金、ダイヤモンド等の回収日割りを示した回覧です。冒頭には、「神風特別攻撃隊に応へ、銀等根こそぎ供出しましょう!」と、レイテに出撃した神風特攻隊を引き合いに出しています。特攻隊は、これから先もことあるごとにこうした呼び掛けで使われるようになり、国民を鼓舞する言葉として独り歩きしていくことになります。
こうして集められた貴金属は、どうなったでしょうか。臣民が信頼をかけたように使われたでしょうか。