<戦時下の一品> 武運長久の祈願文
こちら、日中戦争当時、長野県上伊那郡南向村(みなかたむら=現・中川村))にあった日曽利神社(戦後、地域が隣接する飯島町と合併。現在は上伊那郡飯島町)に納められた、出征兵士の武運長久を祈る祈願文です。今回入手したのは、1938(昭和13)年5月1日、9月1日、1939年1月1日、5月1日にそれぞれ納められた4点です。1点のみ、覆い紙が欠落していました。
日中戦争開戦翌年の1938年9月1日の祈願文を見てみます。出征兵士8人の名前を連ね、その武運長久を祈った後、盧溝橋事件以来の経過を報告しつつ蒋介石の「反省」を求めるもその姿勢を示さないので戦闘していることなど、こと細かに説明。開封攻略戦では地元出身者に負傷兵が出たが、経過は良好で遠山部隊(松本歩兵第50連隊)に復帰しているといったことまで報国しています。そして既に「国家総力を挙げての国力戦」であるとして、守護を祈願しています。4通の祈願文の中で、最も長いものです。
他の祈願文も大きな違いはなく、どこの神社でも同様の祈願文が出されたことでしょう。一方、祈願文の内容は、戦時下の社会情勢も映し出します。日中戦争もいつ終わるのかと動揺が見え始めた1939(昭和14)年の5月1日の祈願文では、戦争が「一面戦闘一面建設の新段階」に入ったとし、「新秩序建設の達成」が戦争の目標になっています。
しかし、誰も新秩序が何であるか、明確には分かっておらず、とにかく「神霊の加護により速やかに夷狄を撃ち滅ぼし」平和の来ることを願っています。もはや、敵が誰なのかも何のために戦っているのかも分からなくなっていて、ただ戦いを続けることがその道と信じることで自らを納得させるような状況に、このときには陥っていたことが明らかです。
祈願文は苦労して形を整えますが、基本は関係者の無事帰還、だったでしょう。しかし、そうは言えないから難しい言い回しとなっていきます。「日曽利神社の大御前に回を重ねる十九回」と1939年5月1日の祈願文は書き出しています。日中戦争が始まり、地元の兵士が出征を始めて以来、ほぼ毎月、こうした祈願文を納めていたのでしょう。そのことで何とか支えられる人たちもいたことでしょう。しかし、ここまで地域の人を追い詰めるのが、戦争なのです。それを、これらの祈願文が後世に伝えているように思えます。