太平洋戦争下の唯一の衆議院選挙、翼賛政治体制協議会推薦候補が圧倒的だった選挙の一端を見る
太平洋戦争開戦後の1942(昭和17)年4月30日投票で行われた衆議院議員選挙。既に1940年に大政翼賛会が発足、各政党も次々と解党して「バスに乗り遅れるな」と結集した後の、初めての、そして唯一の国政選挙となりました。その選挙で長野県が配布した長野第4区の選挙公報一式などを基に、戦時下の選挙の雰囲気を感じたいと思います。
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4区にはベテランでリベラル派の植原悦二郎がおり、彼を含めて7人が立候補しました。配られた選挙公報には「大東亜戦争完遂翼賛選挙貫徹に就て」を題した長野県知事のあいさつ文1枚(表題写真)と、各候補1枚ずつB4判の両面に印刷した選挙公報7枚の合わせて8枚が一組になっていました(上写真)。選挙公報の配布は1934(昭和9)年の選挙法改正で地方長官(知事)が発行することになっていました。
当時の知事は国の任命制で、あくまで役人でした。よって、あいさつ文も国の方針を反映したものとなります。「大東亜戦争を飽くまで戦い抜くべき鉄石の決意を表明するものでなければなりません」「時局が真に要請する最適の人材を議員に選出して頂きたいのであります」「定員の悉くが時局の要請する人材を以て充てられなければなりません」といった言葉が並んでいます。その意味するところは、暗に大政翼賛会の政治組織、翼賛政治体制協議会の推薦候補を当選させよということです。
定数3人の4区には7人が立候補し、推薦候補も3人いました。このうち2人は、冒頭にはっきりと推薦候補であることを明示して1,2位で当選。明示しなかった1人は何とか3位で当選し、植原悦二郎は次点となって落選しています。
選挙では、警察官が非推薦候補への干渉を行い、有力な後援者や活動者を次々と逮捕するなどして、思うように選挙戦を戦えなくさせていました。また、長野県では、二・四事件の労働組合大弾圧と教員団体の国策遂行への一大転換、県も国策に従って満蒙開拓の開拓団送出に力を入れているなど、かつての反抗心もそがれていたせいもあってか、全員、翼賛政治体制協議会推薦候補のみの当選という、全国でも珍しい結果となりました。有権者は、それぞれ何を考えながら一票を投じたのでしょうか。
また、当時は私文書配布の制限も緩かったため、さまざまなものが出されました。こちらは推薦候補であることを大きく打ち出した候補の一例です。
そして戦時下とあり、とにかく戦争遂行大賛成、軍隊に感謝という内容がほとんどでした。
戦時下においては、戦争を遂行する政治体制も整っていきます。既に軍とともに、戦争遂行のための団体となっていた大政翼賛会の下で行われる選挙です。政党もすべて解散した中で、わずかに残っていたリベラルな人を振るい落とす、政府にイエスという人だけが通る選挙でした。そんな中で、非推薦で「反軍演説」により衆議院を除名された斎藤隆夫が当選した復活したことは、押さえつけられるばかりではない意気地も残っていたことを示しました。が、大勢を変える力には、もはやなり得ませんでした。
戦時体制下の選挙とは、こういうものです。政府は意のままに動く暴力装置を使うことで、望む結果を生むことができるのです。そして緊急事態法の怖さは、こうした選択の余地さえ奪ってしまうことです。戦時下を学ぶとは、そんなアンテナを磨くことでもあると思います。