なかなか思考とは変わらぬものと知る、戦前の新聞コラム
表題写真は、1941(昭和16)年12月20日発行の絵本「日本ヨイ國」から取った部分です。
既に日中戦争の1937(昭和12)年の開戦から4年、多くの都市を制圧し、傀儡政権の汪兆銘政権が南京にできていたころです。満州国や中国と「仲良くしてゆこうと、一生懸命に尽くしています」と、どの口が言うかという感じを受けます。そもそも、「支那」と呼ばず「中華民国」なので「中国」と呼んでくれというのは、ずっと出ていた苦情でした。
笠原十九司氏の「日中戦争(上)」では、中国が「民国」であるというのを、天皇制帝国主義国家の日本の指導層にしてみれば、民の国などという言葉が日本に波及するのを恐れたとあります。そして、近代化が遅れて争っている国の何が民国だという蔑視感情もあったのでしょう。
なお、外務省の「外交史料Q&A」によりますと、「外務省記録『各国国名及地名称呼関係雑件』のなかに、1930年(昭和5)年10月に、浜口雄幸内閣が中国の呼称を常則とし『中華民国』とするとの閣議決定を行った際の記録」が残されているということです。
「この閣議決定が行われるまで、日本政府は、条約や国書を除いて中国を『支那』と呼称するとの閣議決定(1913年6月)に基づき、中国の呼称として通例『支那』を使用していました。しかし、中国は侮蔑的なニュアンスの強い『支那』という呼称を好まず、『中華民国』を用いるよう求めていました。たとえば、中国国民政府文書局長であった楊煕績は、1930年5月に日本と中国との間で結ばれた関税協定において、日本が条文中に「支那」という字句を使用した事を批判し、『今後日本側カ重ネテ斯ノ如キ無礼ノ字句ヲ使用スルトキハ我方ハ之ヲ返附スルト共ニ厳シク詰責シ以テ国家ヲ辱シメサルコトヲ期スヘシ』と論じていました。
こうした中国官民の感情に配慮して、外務省は1930年10月27日に中国の呼称変更を閣議に請議し、同月30日に閣議決定となりました」とありました。
その後、民間にも次第に浸透したのでしょうが、なかなか侮蔑意識というのは一掃されないでしょう。それでも1940(昭和15)年、中国に汪兆銘の傀儡政権が発足しており、その顔も立てねばならないとの意思も働いたのか、翌年の1941(昭和16)年2月6日発行の信濃毎日新聞夕刊コラム「話題」で、このことを取り上げていました。
著作権切れを受け、転載してみます。
「▲彼等は支那と呼ばれることを、極度に嫌がる。丁度、日本人が西洋人から「ヂャップ」呼ばわりされれば、癪にさわると同じですヨ…と彼等はいう。
▲自分の嫌なことを、他人に施す勿かれである。それが善隣友好の第一階梯であろう。此の頃、日支といった言葉が段々少なくなって、日華とか日中とかが殖えてきた。
▲しかし、彼等の心理は、はるかに複雑である。例えば、着任した褚大使のステートメントを見よ。『中日民族の真の提携』とか『中日基本条約』とかいっている。「日中」とはいわず「中日」と自国略名を先に出しているのだ。
▲両者はあくまで平等の立場にあるのであって、されば日本が「日中」というならば、自分たちが用うるときは「中日」と呼ぼう、といった心理が此処に現れているのだ。
▲しかも、彼等の心理は、また一段と微妙だ。さる汪政府の要人(東大工科出身者)は日本側が、日満支とか日満華とか書くのは面白くないと言っている。成るほど日本からみれば、満州国の方がより親しくまた先に承認した関係もあるから、そう呼びたいだろうが、それでは中国人の面子が立たないという。
▲国柄からいっても、立国の歴史からいっても、中国は古い国だし、文化の程度からいっても中国本土のほうが高い。満州国の風下は、何といっても困る。本当に中国と親善を図るつもりなら、こういう点にも注意して、日華満と呼ぶことにしてもらいたいというのである。
▲いずれにしても、共栄圏構築の前途には、日本人が修養を深め、腹を練って、度量を大きくしてゆかねばならぬことが、沢山あるようだ。単にコトバの使い方を注意する位なら、いとお安い御用である。」
なぜ支那がいやなのか、には触れていないことが不足といえば不足ですが、相手が嫌だと言っていることを、それも言葉使いくらい、相手のことを考えるのはお安いことと明言しています。そして、そのぐらいの度量がなければ「共栄圏構築」(このときは、日本、満州、中国の提携による共栄圏構想)などできないと注意を喚起している点は、正論というか、ごく当たり前のこと。それでも上記絵本は「シナ」表記を平然と使っています。
近年、SNS上で「支那と呼んで何が悪い」といった論調がぼつぼつ出ています。石原慎太郎元都知事(故人)が、中国を見下す文脈で「支那」という言葉を使っていたことを思い出します。それと同じで、SNSでこの言葉にこだわる人のタイムラインを見れば、その意図が分かるでしょう。1940年の時点で、既に世の中は「日中」に動き出していたことも示せば、いかに時代錯誤で狭量なことか。
そうした目でもう一度、先の絵本を見れば、一段下の国だから、日本がわざわざ骨を折って悪いやつらを退治してあげているーという視点が浮かんできます。そして日本は兵隊、中国は子どもしかいないのも、子ども向けの絵本だからという理由もあるでしょうが、大人の日本と子どもの中国という対比で、日本の強さを示そうとしたのではないかと思えるのです。
◇
そんな戦前の空っぽな大国意識が、経済も人口も衰退してきた現在、逆によみがえっているのではないでしょうか。相手を見下げることで相対的に自分が上に立つということで、現実から目をそらし、いつまでも虎の張り子にしがみついている、そんな姿をさらしているようです。
普段でも、相手を下げて自分を上げるような言説は出るものです。それでは現実として、自分は全然伸びていないのに、上に出ているような錯覚になるのです。そうではなくて、自らを研鑽し、高めることで、お互いを認め合う。そんな姿勢が私生活でも、国同士でも、必要なのではないでしょうか。その価値観は不動だと思います。
追記・外務省の公文書については、宇宙の父さんよりご指摘をいただき、挿入しました。これを受け、文書の書き直しを行いました。謹んで、御礼申し上げます。