機を見るに敏な森下仁丹の宣伝と素晴らしい容器、販促品を見よ!
戦争だけでなくさまざまな世相と絡めた商品を作り、宣伝文句を考えるのは商売の常識。森下仁丹株式会社もその例外ではなく、むしろ先行していたのでは、と思わせる品々をご紹介します。
上写真は、仁丹を入れる容器の一つで、満州国建国に合わせて作った「満州容器。ふたの部分が満州国旗の五族共和の色をもじった赤、青、白、黒、黄(本体)だということです。時間の経過で本体が茶色に、白帯が黄帯になっていますが、元はそうだったようです。
詳細は、1932(昭和7)年9月17日の信濃毎日新聞に半ページ大で入った広告(上写真)でどうぞ。「日本全国至る所の薬店にて発売す」と。
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次は日独伊三国防共協定締結(1937(昭和12)年11月6日)にちなんだ、お店に対する販促品の案内。長野市信州新町(旧・上水内郡信州新町)の薬店から出てきたものです。
ここで話題になっている防共容器、実は一式が手に入りました!
「防共容器」のデザイン、どうみてもただの地球にしか見えませんが、とにかく「防共」と言っておけば、防共容器だったのでしょう。無理にでも作り出す精神には脱帽です。
若干時間をさかのぼり、1937(昭和12)年9月末には、早くもカレンダーの予約受付を始めています。この付録に先ほどの慰問仁丹のミニポスターが付いていました。
さて、1938(昭和13)年に向け1937年11月10日に発行したお店用の「仁丹時報」254号は、大勝利の日の丸が翻ります。開くと富士山と勝利を喜ぶ子供たち。戦勝気分で盛り上げて…
そして本文は、戦争に伴う材料高騰により、店の取り分を変更するという、言いにくい内容に導いています。
でも、ちゃんと慰問用として売り込むポスターなど用意するから、お店で買って工夫してくださいっていう、バックアップ? も。
戦争が長引けば、それだけ前線に長期にわたっている兵士も、新たに召集される兵士もおられるでしょうから、「慰問袋に仁丹!」と強調するポスターを用意する先見の明。商人の鏡でしょう。同時に、こうした企業努力が戦争を後押しする影の力にもなっていたことでしょう。
さて、長期化する戦争の中、森下仁丹はどう変容していったか。これからも努力して収集していきます。