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勉強内容も「戦争に役立つ」に重きを置かれる中、須坂中等学校の英語教師は戦争に勝つため、ではありつつ「本物の英語」を真剣に指導しぬく

 「少年たちの100年ー信州中等教育の歩みー」(1976年・信濃毎日新聞社編)では、戦争の深まりと教科の重点化について触れていました。数学が重点とされる一方、外国語は最下位に位置付けられます。そんな中、本物の英語をと必死になった須坂中等学校の英語教員がいました。表題写真を含めこの項の掲載写真はこの教員に敬意を表し「長野県須坂中学校」と題した1938(昭和13)年から1941年ごろと推定される卒業記念アルバムのものです。
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 同書によりますと1942年度には「勉強の内容も『戦争に役立つ』ように変わる。(略)ネジと歯車に関する学習時間が多くなり(略)、工場でもすぐ活用できそうな分野が新しく教科書に登場。(略)軍事、労働目的に沿ったものだった」とあります。1944年には生徒が次々と軍需工場へ動員されます。

当時の生徒たち

 1943年の中等学校令で最下位に置かれた英語。英語教師の中には他の教科に時間を割かれても仕方ないといった雰囲気もあった中、須坂中学に1942(昭和17)年に赴任した松峰隆三教諭は違いました。
 1年から5年まで使う教科書に「ザ・ソウル・オブ・ジャパン」(大和魂)があり「大和魂は何かと聞かれたら、何も言わず、朝日に照らされて散る山桜を指すだろう」と、戦時体制に沿った内容。松峰教諭は「『人を馬鹿にしている(略)』。英語教育は英米文化の摂取のためになされなければならないと考えている松峰にとって、『大和魂』と英語を結び付けることは我慢できなかった」(同書)。
 一方、生徒には「戦争に勝つためには英語が必要である。言葉は弾丸である」と繰り返した(同書)。「授業開始前、黒板に1,米英撃滅 2,英米文化の摂取 3,科学的方法で最短距離突破ーと書きつけ、2,3回繰り返し叫んだ」(同書)。1はあくまで偽装とみますが、2は本人の信念、3は短くされた授業時間でいかに効率よく学ぶかです。授業では、絵だけを示して教科書には載っていない部分も含めた英文を発音させたり、英語の数え歌は応援歌風で全員が斉唱するなど、独特で厳しかったということです。

陸上部員ら

 どんな環境でも信念に従い、成果を上げた教師がいたこと、大変嬉しい。これだけは譲れないというものの大切さ。過去も現在も未来も同じ。ゆがませられることには自ら抵抗しなければならないことを、このエピソードが伝えています。

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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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