見出し画像

敗戦後13年しても、消息不明長野県関係者が1770人も記載されていた「未帰還者名簿」に見る戦時下、戦後の惨状

 こちら、1958(昭和33)年11月1日現在でまとめられた「長野県関係未帰還者名簿」です。中の人が手作業で数えていますので誤差があるかもしれませんが、軍人と民間人、合わせて1770人の未帰還者が記載されています。甲府市に軍隊サロンが開かれ、カラーの娯楽映画も上映され、ようやく余裕を感じられるようになってきたのが1960年のこと。そのわずか1年ほど前のことです。A4サイズで16ページにわたっています。

敗戦後13年、まだこれだけの人の消息を求めていました

 名簿は軍人軍属の部、邦人の部に分かれていて、所属部隊や終戦時の居住地、階級・職業、氏名、生年、本籍、そして現状で得られている最後の消息(時期、場所、状態)となっています。

軍人軍属の部。さまざまな部隊に散らばっています
最後の消息も、生存、不明、死亡、目撃といろんな状況が

 たとえ死亡という情報があっても、それが確かなものなのか、再確認する意味があったのでしょう。軍人軍属の数は、現地除隊されて邦人の部に入っていた方も含め、428人おられました。所属部隊は実に多数で、日本軍が広大な戦域に部隊を散らしていた様子が伝わります。看護師の名前もよく出てきます。
           ◇
 一方、長野県が全国最多の数を出した、満州の開拓団と満蒙開拓青少年義勇軍関連の方が、分類では最も多く、1098人に上っています。満鉄の関連企業や病院などの関係者、軍人の家族ら、満州の一般の長野県民は166人でしたから、いかに開拓団がソ連の奇襲攻撃と押さえつけられていた中国人の襲撃などで苦労され、犠牲になったかが伝わります。国策に持ち上げられ、生活の再建をまじめに夢見ていた人たちの犠牲に、やるせない思いがします。

開拓団の未帰還者がずらりと

 行方不明者が非常に多く、また、国際結婚や中国人に預けられたといった消息の記述があり、中国残留日本人妻、中国残留日本人孤児という、敗戦後に政府が向き合わねばならない現実が突きつけられています。しかし、その対策に政府が動くのは中国との国交回復後。その前に長野県の山本慈昭さん、半田孝海さんといった僧侶が現地慰霊を検討する中、これら残留者のことを知り、民間レベルで帰国や家族探しに尽力したのです。

行方不明が非常に多い
「満人に預けた」というのが残留孤児となっていった方です
満蒙開拓青少年義勇軍は満州では義勇隊と呼ばれ、やはり未帰還者も

 一般人の関係では、やはり国策会社の南満州鉄道株式会社(満鉄)の関連会社が多く、日本の満州統治ぶりを思わせます。これらの方も、悪気はなくても中国側から見れば、軍人同様の経済面での侵略者と映ったでしょう。普通に経済の関係でお付き合いしていれば、そんなことはなかっただろうにと思うと、国の失策を拭わされるのは、やはり庶民という思いが高まります。

満鉄関係会社が目立つ

 また、日本の敗戦後の中国では、蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党の内戦が起き、そうした内戦の軍隊に使われた方もおられました。

「八路軍」は中国共産党の軍隊

 また、ソ連領の収容所などで消息不明となった方は18人おられました。

既にシベリアからの送還は進んでいたころ

 そして朝鮮関係では36人の方が記載されていましたが、中のおひとりは朝鮮戦争で米軍の空爆により死亡という消息が書き込まれていました。さまざまな事情で現地に残り、またもや戦火に巻き込まれた方です。しかし、朝鮮半島の方たちは、国土が戦場となり、さらに南北の離散など、もっと大きな犠牲を出していることには留意したいものです。

朝鮮戦争で死亡との消息も

 軍人軍属428人、開拓団(義勇隊含む)1098人、一般244人。こののち、どれだけの方の消息が確認されたのでしょうか。戦争はその規模を問わず、長く関係者を苦しめるものだということ、この名簿が今に伝えていると思います。戦争は結果がどうであれ、長い苦しみを双方に残すものという事実は、戦争回避の努力こそが大切と語っている、そう信じています。

いいなと思ったら応援しよう!

信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
ここまで記事を読んでいただき、感謝します。責任を持って、正しい情報の提供を続けていきます。あなた様からサポートをしていただけますと、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できます。よろしくお願いいたします。