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消えていく戦時体験の「味」ーよく分からない「粉」、水で薄めたしょうゆ…シベリアに抑留された故・中島裕さんの思い出とともに

 戦時下のことを伝える方法はいろいろあります。映像、書物、実物、疑似体験…。それでもやはり伝えにくいのは「味」ではないでしょうか。かつて、敗戦記念日の8月15日付近の戦時体験において、すいとんを作って食べるという催しを新聞記事で見たことがありますが、決まって体験者は「こんなに立派なものではなかった」と言い、戦争を知らない子どもたちは「おいしい」と言って普段とは違う食べ物を楽しんでいた様子です。

 この一例は、まず、食べてもらえるものを作らねばならないので、だしもとれば具も入れるし、調味料もしっかり使うでしょう。しかし、戦時下においてはいずれも不足していたうえ、決定的な違いは小麦粉の質でした。国内外で集めた小麦を、それこそ皮のぎりぎりまで使って粉にひき、不純物も混ざったものが配給されるのです。ミカンの皮が大量に集められて粉砕して混ぜられたこともあり、こうした不純物の混じった粉でパンを焼くと、黒っぽい重いパンができたということです。配給でも、こうした混ぜ物の多い小麦粉はもはやよく分からないので、単に「粉」と表現されるようになっていきます。

 また、輸送事情の悪化で砂糖が入らなくなり、長野県内では、干し柿を作った時に残る皮が甘味のおやつとして販売されたりしていました。一方、日中戦争開戦間もない1938(昭和13)年ころには、飼料不足で牛乳の供給量が減ったことから、コメのとぎ汁や豆乳を混ぜたまがいものの牛乳が登場し、当時の新聞で見分け方が紹介されるなどしています。太平洋戦争下の1942(昭和17)年10月には、長野県の須坂警察署が管内のみそしょうゆ醸造事業者を調べたところ、しょうゆを水で薄めた「水しょうゆ」が3件見つかったと信濃毎日新聞に報じられていました。
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 こうした国内の食糧不足とともに、よく語られるのがソ連による国際法違反のシベリア抑留における体験でしょう。特に1945年から翌年にかけては、ソ連国内も独ソ戦のあおりで疲弊していたこともあり、食糧事情は非常に厳しかったという話しか出てきません。
 そんなシベリア抑留を体験された故・中島裕さん(静岡県出身)の講演を、2014年11月に長野市で開かれた「戦場体験百人展」で聞く機会がありました。主催は公益社団法人マスコミ世論の会、戦場体験放映保存の会(いずれも東京)で、戦場体験者の大量の証言からえりすぐった100人分を、当時の写真やパネル、証言集会などで伝えるとの企画で、中の人も展示の協力をさせていただきました。体験証言集会で中田事務局長は「個人の体験が、政治史や外交史では出てこない戦争の姿を浮かび上がらせる」と意義を強調されました。
 中島さんは終戦の時に18歳。満州でソ連軍の捕虜となり、タイシュットという、シベリアで最も寒い地域に抑留。1948(昭和23)年6月に帰国することができたということで、当時の様子を描いた絵を映写しつつ、証言してくださいました。「私がいた地域は零下60度にもなるところ。零下40度までは屋外で作業をさせられました」「零下40度となると、鉄を素手でさわろうものなら張り付いてはがれない。レール運びでうっかり張り付き、手をはいだら皮がむけるという感じでした」「肉や野菜を切るのに包丁は通用しません。のこぎりを使います」-。

講演する中島裕さん

 そんな厳しい環境の中、森林を伐採して鉄道を敷設する作業をされます。ノルマを達成するため、ちょうど手ごろな太さの木を選ぶのがこつだ、といった知恵も披露していただきます。しかし、何より厳しいのは食事が1日1000キロカロリー程度。4000キロカロリーは必要とされる労働環境下ですので、栄養失調になるのは必定。「夕食を食べながら、隣の仲間と話をしていたんですね。そうしたら、急に返事がなくなる。どうした、と肩に手を置いたら、ぱたっと倒れた。座ったまま死んでしまったんですね。毎日同じものを食べ、同じ仕事をしている仲間。あすはわが身と思いました」
 ライムギで作られた黒パンを皆で分けるのですが、切り分けるのを見る目は必死だったということで、切りくずも残さず分けて食べたということでした。後でお話する機会があり、その藁屑も混じった黒パンが酸っぱかったということをうかがいました。長野市でもライムギを9割使った酸味のある黒パンを売っている店がありますので、翌日、会場へ持参しました。

こちら、思い出しながら買ってきました。
黒砂糖ではなく、ライムギによる黒っぽい色
粘り気は少ない、ぼろっといく感じ

 袋を開けると酸味のある香りがするので、どうかとお渡ししましたら、一口食べて「全然酸っぱくないよ!」と仰られました。当時の自分としてはけっこう酸味のあるパンと思って居たので、これより酸っぱいパンというのを、想像することができませんでした。それでも中島さんの記憶には、当時の体験と、その味覚がしっかり残っていたのだなと、今になって思えるのです。その中島さんにも、もう会うことができません。

中島さんからいただいた名刺。今はもう、いただけません

 戦争を知ること、戦時下の生活を知ること、それは体験者がいなくなっていくとともに、薄れていくのはやむを得ないことではあります。しかし、こうした戦時下の「味」も含めて、やはりさまざまな角度からアプローチして残すこと、伝えることは大切だと思います。どんなことでも関心に合うものがあれば、多くの人に過去に関心を持ってもらえると、さまざまなものを収集し、本を読み学び発信する日々です。

 戦時下の食については、魚柄仁之助氏の「台所に敗戦はなかった 戦前・戦後をつなぐ日本食」(青弓社)をお薦めします。これは戦時下に限りませんが、さまざまなレシピから日本食の流れを紹介していて、あきません。

 人は食べなければ生きていけない、戦時下であっても、敗戦したからといっても、食べるのをやめるわけにいきません。その時々の創意工夫が人々の命をつないできたことはもちろんですが、きちんと皆が普通に食事できる社会こそ、大事な社会。政治の仕事とは、そういうものではないかと思います。今の日本では、子ども食堂が広がり、食料品の配布には行列ができる状態です。戦時下でなくてもこの状態が改善されないことを、政治にかかわる方たちはどう思って居るのでしょうか。
 そして戦争は、当たり前のことを国民に極限まで絞らせる愚策です。特に、食糧の大部分を輸入に頼る日本の指導者は、是が非でも戦争を回避することを第一にしていかねばならないと、強く思うのです。

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