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日中戦争で負傷兵が続出、1938年に厚生省外局として傷兵保護院が設置され、小学校で理解を深める活動も行いました

 明治維新後の日本は「富国強兵」「脱亜入欧」を掲げて帝国主義路線を走ることで、西洋列強に飲み込まれないような政策を取り、近隣国との戦争の連続となります。戦争の規模が小さい頃は、負傷した兵士を「廃兵」と呼び、一時金や恩給などでしのいでいましたが、やがて負傷兵が再び戦場に立つことも想定、廃兵から傷兵、傷痍軍人と呼び方も変わっていきます。

 そして1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争が本格化すると、それまでとは比べられない戦闘規模となり、負傷兵も増えていきます。そんな中で、1938年に厚生省外局として「傷兵保護院」を設置、社会復帰支援や生活扶助の拡充などを行い、1939年には「軍事保護院」と改称して、事業を継続します。

 社会的な啓もう活動も重要でした。傷痍軍人が電車に乗ってきても席を譲らないなど、社会的には他人に関わらない日本人の性格、自分からは行動しない他者頼みの指示待ち的な性格などを変えねばと思ったかは分かりませんが、当時の青年や小学生に傷兵への感謝を植え付ける教材も作りました。こちらの2つの楽譜は、傷兵保護院発足の年の10月に作られた、傷兵への感謝や尊敬を高める狙いの楽譜で、長野県の上伊那郡東箕輪尋常高等小学校(東箕輪村、現・蓑輪町)の印が押してあります。

傷兵保護院の啓もう活動の楽譜
文部省検定も受けています
開くと楽譜と歌詞が
歌詞はこんな感じ

 傷痍の勇士は土岐善麿作詞、堀内敬三作曲です。土岐は大杉栄との親交もありましたが、1936年に日本歌人協会が改組して「大日本歌人協会」となると北原白秋らと常務理事に就任し、歌作を復活。そのころの作品です。

をじさんありがたう
スタイルは同じ
傷痍の勇士に比べ穏やかで、低学年想定か

 作詞は同じですが、作曲は長野県下高井郡新野村(現・中野市)出身の中山晋平です。「シャボン玉」「カチューシャの唄」など多数の曲で知られる人ですが、やはり戦時下には、こうしたこともやらざるをえなかったのでしょう。仕事としてこなしたのか、積極的にかかわったかは分かりませんが。

 戦争は、軍隊だけではなく、歌人や作曲家など、あらゆる階層の人を巻き込んでいく「総力戦」と実感できます。子どもたち、青年たちは、どんな思いで受け止めたのでしょうか。

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