戦争が終わって始まった、戦時向け資材の民生利用ーとにかく生きねばならなかった時代のアイデア勝負
1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中戦争開戦から始まり、マレー半島コタバルと真珠湾への日本軍の奇襲攻撃で太平洋戦争に広がって、それらの戦闘が大日本帝国の無条件降伏受諾によって敗戦調印が行われた1945(昭和20)年9月2日まで、実に8年2カ月もの長い戦争が続きました。
第二次世界大戦は1939(昭和14)年の開始。それより長い戦争をこの資源小国がやってきたのですから、最後は精魂尽き果てても当然でした。当時の臣民への主食配給(有料)は玄米すら事欠き、何をつぶしたか不明な「粉」や、かつては飼料や肥料にした「大豆かす」などがだんだん主力になっていました。戦争が長引けば先に飢餓で滅亡するところまで行っていたのです。
そんな日本に最後に残った使用可能な資材は、当然ながら軍需用品やその素材でした。例えば飛行機を生産していた軍需工場では、ジュラルミンを箱にして売るなど、民生品への転用が始まります。中の人の幼少のころは、まだよくみたものですが、最近はオークションにもなかなか出てこなくなりました。そして民生転換品を探していて、ようやく入手したのがこちらの品です。
底には「昭和20」の刻印も入っており、敗戦間際のものであるのは確かです。
この形状、実に特徴的で、底は穴を塞いだ跡があります。軍事関係に少し興味のある方ならすぐわかる、防毒マスクの吸収缶で間違いないでしょうす。
防毒面の本体はこのようになっています。顔を覆う面から呼吸管が伸び、その先に毒ガスの有害成分を吸着させる「吸収缶」が付きます。
外気は吸収缶の底の穴から吸い込まれ、無害化されて防毒面内に送り込まれます。先ほどの未完成品を並べると、当初は未完成品には穴が開いた状態で、民生用の水筒にしようと底をふさいだところの中間品と分かります。大きさは転用品のほうが少し小さいようですが、形状は基本的に同じで、同様に防毒面につなぐ方式のガスマスク用だったことは明らかです。
この部品を水筒に再生しようと思いついた人はすごいって思います。底の穴の埋め方から、それなりの技術をちゃんと生かしていると。そして終戦時にこの物資をどうやって確保したか、大変興味があります。おそらく、日本全国で目端の利く人たちがうまく立ち回っていたのでしょう。
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一方、こちらはまさに降伏調印式の様子を伝える、1945(昭和20)年9月3日付の信濃毎日新聞です。この紙面の2面(新聞はこの当時、2ページしかありませんでした)に「鉄兜の鍋はいかが」と題した記事がありました。
長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)の原商事の取締役が県に鉄兜(おそらく防空用のもの)を鍋に改造した見本を持ち込んだということで「鍋類の不足、特に鉄鍋のほしいこの頃では、手持の鉄兜を早速、このように平和特産物に切り換えるのもよかろう、希望者は各警察署へ問い合わせること」とあり、警察の備品の鉄兜放出を許可することにしたもようです。そして「県内には1万個以上の鉄兜があるので、これを全部お鍋に化けさせたいと県ではその方法を考えている」とか。
金属回収で供出させた鍋釜が、どんな兵器にどう利用されたかは不明ですが、戦争が終わったなら旧に復するのが道理。この一点をみても、戦争とはつくづくバカバカしい行為です。
そして、降伏調印して今日から戦争が完全に終わったといっても、人々の営みは昨日からの連続です。この変化をどう受け止め、先に進んでいくか。鉄兜鍋は、その切り替えの象徴のように思えます。戦争の愚かさを伝える素材として、ぜひ手に入れたいものです。