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軍や国が最初に目を付けるのはやっぱり教育だと実感

 「少年たちの100年ー信州中等教育の歩みー」(1976年・信濃毎日新聞社編)で、戦争と絡む教育のいくつかの節目を目にしたので紹介させていただきます。表題写真を含めこの項の掲載写真は「長野県須坂中学校」と題した年次不明のアルバムからです。写真に大日本国防婦人会のたすき姿が出てくること、差し替えたのでしょうが軍事絡みの写真が大部分を占めることから、1938(昭和13)年から1941(昭和16)年ごろのものと推定します。
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 1937(昭和12)年、文部省は中等学校「公民科」の狙いを大きく変えているとあります。それは、以下のようなすさまじい変化でした。
 「善良なる立憲自治の民たるの素地を育成する」⇒「日本臣民たるの信念と憲政治下の国民たるの資質とを養成する」
 「遵奉の精神と共存共栄の本義とを会得する」⇒「遵奉奉公の念を涵養する」
 「『日本臣民』の育成が前面に据えられる」(同書)とある通り、「自治」の言葉が消え「日本臣民たるの信念」に、「共存共栄」から「奉公の念」に変わっています。教育基本法への「愛国」の記載と通じます。同時に、当時でも「自治の民」という、言葉が使われていた点に刮目しました。もっとも、前年の二・二六事件で政治はほぼ息の根を止められ、公民科の狙いの変更も、それを受けた軍国化の流れでしょう。

記念写真に日の丸だ

 同書によりますと、1943(昭和18)年1月、中等学校の法的な基礎となっていた中学校令、高等女学校令、実業学校令が廃止され、新たに「中等学校令」が制定公布されます。中等学校令は「皇国の道に則りて高等普通教育又は実業教育を施し国民の錬成を為す」とし、公民科を吸収してあらたに「修練」を設けます。「十二年の公民科の修正、十八年の教育改革などを通じ、中等学校は、気力、体力ともに充実した臣民、戦士を育てる教育が支配的になったといえる」(同書)という指摘の通りでしょう。

銃剣術の試合

 「修練」は「尽忠報国の精神を発揚し献身奉公の実践力を涵養する」(中学校規定)とされていました。もっとも、翌年の夏ごろからは勤労動員で勉強どころではなくなっていくのですが。

 昔も今も、権力者が権力を維持する態勢としての「国」を持ち出すのは変わらないこと、覚えておき、アンテナを張り続ける必要があるでしょう。未来の子どもたちのため、過去を繰り返させてはなりません。

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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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