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憎悪を煽った戦争が子どもの心に残したもの
1944年秋から、政府と軍はとにかく敵国への憎悪をあおる宣伝をし、出版物やポスターもこれに追随します。外敵に怒りの矛先が向いているうちは、戦争を継続できるーそんな狙いがあったのでしょう。
1945(昭和20)年4月21日の新潟日報には軍が決定した「決戦訓」が掲載されていました。
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5つからなり、聖諭の死守、皇土死守、待つあるを恃む、体当たり精神の徹底、一億戦友の先駆たるべきーとしてあり、つまり命を投げ出して皇土を守れということですが、各文を見ますと「外夷の侵襲を撃攘」「皇土を侵犯する者悉く之を殺戮し、一人の生還無からしむべし」といった、敵への憎悪を煽る言葉が並んでいます。
一方、こうして本土決戦の意識を敵意を高めることでまとめていったものの、8月6日に広島、9日に長崎に、それぞれ原爆が投下されたうえ、8月8日にソ連も日ソ中立条約を破って参戦するなど、打撃が相次ぎます。8月12日の信濃毎日新聞は、長崎にも原爆が投下されたこと、広島への原爆投下が残虐だと米国に抗議したことを伝えています。実際、核兵器の初の使用による惨劇はすさまじく、その影響は現在まで響いています。
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しかし、これらの状況を受けて8月14日にポツダム宣言受諾決定、9月2日に降伏文書調印で敗戦を迎えます。
さんざん敵意を煽ってきた米国が日本を占領すると、変わり身の早い人たちはうまく取り入って勢力を伸ばすことを考えます。そして、それまでの権威は地に落ちます。国民学校でも、かつては登下校時に欠かさず敬礼をしていた奉安殿に対して敬礼をすることもなくなり、それまで率先して敬礼していた少年が、小便をかけるいたずらをするほどだったといいます。そして鬼と言われた米兵がそうではないと分かると、それまでの憎悪がひっくり返ったようになっていきます。
しかし、戦時下、浸透させた憎悪の気持ちは、戦後数年しても残っていた子どももいました。純粋に信じただけに、変わり身ができないのです。それは、その子の責任ではもちろんありません。むしろ、反省なく手のひら返しをした大人たちへの反感もあったかもしれません。こちら、現在は上田市となっている地域に住んでいた少年が戦後数年して描いたものです。
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この絵の題名は「あめりかえせめていってほろぼす、おれのげんしばくだん」です。
中の人も、原爆の投下、被害は許されるものではないと思って居ますが、この絵の主題は米国に対する憎悪です。戦時下、さんざん煽ってきて、頼るものが精神しかないとなるとなおさら激しく憎悪感情をたきつけ、国民学校でも竹槍訓練をさせるに至った戦時下の日本政府と軍は、子どもの心に戦争が終わって何年しても消えない憎悪の気持ちを植え付けました。この責任は大きい。しかし、誰もその責任を取らない。その象徴が、この憎悪の絵です。この子どもにとって、まだ戦争が終わっていないのです。
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