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テニアンで戦死した歩兵第50連隊・松田和夫大尉の妻の手記を読むー戦争を挟む激動の80年余、最後に訴えたかった事
1944(昭和19)年9月30日、大本営は大宮島(グァム島)及びテニアン島の守備隊が全員戦死、いわゆる「玉砕」を遂げたことを発表。翌日の朝日新聞は、一面トップでこれを報じます。テニアン島の守備隊の主力は、長野県松本市から満州の遼陽へ移駐し、その年の2月18日、この方面に引き抜かれた歩兵第50連隊でした。その第1大隊長、松田和夫大尉=長野県松代町(現長野市出身)=は米軍上陸の初日、7月24日に戦死したとみられています。
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その妻、松田すゑさんは出産を控えていたことから、満州から引き揚げて故郷の長野県別所村(現・上田市)ではなく、山形県の兄の元にいました。7月24日の夜、湯上りに娘と一緒に部屋の前で涼んでいたとき。裏庭の畑に白い布を被ったような人影らしいものが見え、とっさに「あなた」と声を掛けます。が、それはすぐ消えたと。そして9月30日午後5時ごろ、ニュースで上記の大本営発表が流れました。「ラジオの前に座り込んだ。涙も出ない。唯頭を斧で殴られたような気持ちで両手で頭を押さえていた」ー松田すゑ著「越えてきた道 憶い出をたぐって」より。(注・原文では白い影を見たのを8月24日としてありますが、7月24日の記憶違いとみられます)
松田すゑさんは、1987(昭和62)年7月1日から1988(昭和63)年9月20日にかけて、80年余の人生を振り返った手記「越えて来た道 憶い出をたぐって」(2巻)を書きあげました。長男が清書し子や孫らに伝えるべく、限定60部を印刷した貴重な私家本が、回りまわって私の手元にたどり着きました。
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松田さんは1906(明治39)年12月3日の御生まれ。原稿を書き上げしばらくして、2巻目の完成を見ることなく1988年の誕生日前に81歳で亡くなられました。日本の敗戦を挟んで、ほぼ人生の半々をそれぞれ生き抜いた生涯。その文章は、少女が成長し、夫の戦死を受け止め、5人の子どもを抱えながら知恵を絞り生き抜いていく様子が、目に見えるように生き生きと描かれていました。
まだ下士官だった夫に嫁ぎ、士官学校の受験に2度落ちた夫がやる気をなくしている時「かわいい娘を下士官の娘ではなく、私は将校の娘としてお嫁にやりたいと思います。それは貴方の決心一つ」と後を押す気丈さを見せます。その夫がやる気を出し、無事士官学校を卒業。中隊長になっていたころ、連隊で開いた軍旗祭で夫の中隊に「光明中隊」と立派な文字で書かれていたのを当番に尋ねたら、連隊長が書いたものという。夫は初年兵の時に人違いでビンタされ、その悔しさが忘れられず、以後、下士官時代も含めビンタを一切禁止し「人間同士話せばわかる」との教育方針を貫いたと。これが連隊長の耳に入り、手渡されたということです。
同時に面倒見も良かったので「貧乏少尉、やりくり中尉、やっとこ大尉」の言葉を松田さんは実感します。ある時どうにもならず、一度だけ質屋を使う場面が出てきます。その後やりくりで質流れは阻止できたので黙っていましたが、親戚の助言「苦労話もきちんとしておきなさい」で打ち明け、一層互いの信頼が高まるなど、軍人家庭の貴重な記録にもなっています。
松田さんも実家は裕福でなく、苦労をいとわない性格でした。そしてこの夫の人情味。戦中、戦後を通し、その二人のさまざまな思いやりが紡いだ人のつながりが、数々の困難を支えてくれます。
特に敗戦後、どうやって生き抜くか、稼いでいくか、を考える松田さんの姿は、頼もしくあります。別所村といえば別所温泉とマツタケで有名な観光地。娘時代には近所の悪童たちを出し抜いてマツタケを先回りして取ってしまったことも。戦後の商売として、地の利を生かして氷水販売を思いつき、さまざまな人の協力を得て開業に向かう過程はそれだけでも立派なお話に。「みつまめの寒天はもう少し固めが良い」「氷水にはちみつを加えると甘さが引き立つ」といった助言をしてくれる人たち、土地や店を世話してくれる方々、それを柔軟に取り入れて繁盛させていく姿。前を向いて進む明るさにあふれています。
戦争で命を落とした人のおかげで今がある、といった言葉を為政者から聞くとき、そこには何とも言えない違和感があります。松田さんも手記で一カ所、そのように触れている所があります。が、松田さんの原動力は、まさに戦死した夫の分まで、頑張って子どもたちを育て上げようという心意気にあったのではないかと思えました。その意味において、松田さんが、戦没者のご遺族が、そのように言う事は素直な気持ちから出てくる言葉であり、充分理解できました。かつて私が本にさせていただいた牧内寛末兵長も、たくさん亡くなられた部下のためにもという思いがあったのかと、今なら思うことができます。
2度の火事に見舞われながらも、そのたびに多くの人の支援や応援を受けて立ち上がっていく姿は、見習わねばと思わせられます。いろいろな工夫を重ねて別所温泉の名物作りをと記憶の中の懐かしい煮物を改良した「七久里煮」の販売、また、遺族会でも活躍された松田さん。後半生は糖尿病に悩まされ、入退院を繰り返す中、長期の入院の中で思い立って手記を書き始めたのにはどんな思いがあったのか。それは、最終段階で、松田さん自身が気づいたようです。
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2巻の締めくくり、「最後の最後まで、本気で生きるつもりだ」「人の身体はいつも確かな希望を持ち、強い精神を持ち続けていると自分でも意外なほど、頭も働き力も出ることを知った」と相変わらずの気丈さを見せます。
しかし、この間に夫の戦死公報を受けた時、うちだけではないから、子どもたちの前で泣くまいと思っても「夜具の中へ顔を埋めて泣いた」という回想に戻っています。
そして「戦争というあのむごい悲しい事実をだんだん世の人々から忘れられていきつつあるこの世相が口惜しく情けなく、せめて子供や孫たちにだけでも心に止めておいてほしいとこの手記を書く気になった。戦争は絶対にいやだ。戦争は絶対反対だ」と、本当の思いが溢れてきます。
そして最後の行。「子供達も孫たちも私の越えて来た道を素直に理解して、戦争絶対反対者になって欲しいと願ってこの手記を終わる」とし、未来を託します。
思いがけぬ手記の入手。そして単なる人生語りにとどまらない、人情や感謝。さらに戦争の理不尽さが、しみじみと、行間からも文中からも伝わってくる名文、一気に読みました。そして、松田さんの思いを、私は子孫ではないけれども、あの時代を生きた人を受け継ぐ世代として、その思いを一緒に託されたと思い、将来を見据えたい。そんな力をもらえた手記に感謝。そして、亡くなられた皆様に、あらためて哀悼の意を表します。
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