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戦前、戦中の若者たちが歌った、さまざまな歌ー戦争の深まりによる変貌と、変わらないもの
これまで収集してきた品の中で、歌集がいくつかそろってきました。とりあえず、おおむね同世代の青年たちが使ったであろう、いずれも長野県内の歌集から、変遷を見てみました。なお、年代が明確なのは1冊だけで、あとは収録曲などからの推測となりますこと、ご容赦ください。
まず、唯一製作年が1935年とはっきりしている、伊那町(現・伊那市)青年会・伊那町女子青年会の「歌集」から見てみます。
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1935(昭和10)年といえば、国際連盟正式脱退や翌年の海軍軍縮条約期限を控えて「35、6年の危機」と叫ばれ、自ら世界の孤児となる「非常時」の言葉がはやったころです。「吾等の希望」と題した巻頭言の歌集発行の意図に、質実剛健の気風をあらためて取り入れ「非常時日本を背負う青年の使命を」果たすこととしてあります。戦時下ではなくとも、既に戦時を意識させる雰囲気がありました。
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満州事変を起こし、第一次上海事変の謀略を担って中国を混乱させてきた関東軍が、よくもまあ、恥ずかしげもなくこんな歌を作っていたのですね。
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そしてこちら、参考までに「愛国行進曲」の歌詞カードで、松本市の松本女子職業学校で作ったものです。表紙の日の丸のデザインは、参考にしたであろうコロンビアレコードの「愛国行進曲」の歌詞カードのデザインそのままです。愛国行進曲は、1937(昭和12)年の日中戦争の始まりに合わせて、国民精神総動員運動の一環として内閣情報局が歌詞と曲を公募して作り、12月26日に一般公開しました。著作権フリーとしたので、各社がレコードを発売したということです。
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次にこちら、諏訪中学校(現・諏訪青陵高校)の生徒でつくっていたとみられる「永明学友団」の歌集です。1942年3月に発表された、東京日日新聞と大阪毎日新聞の公募作品「大東亜決戦の歌」が入っていますので、太平洋戦争開戦後のものですが、まだ学生団体が残っていたので、1942年の早いうち、おそらく4-5月ごろに、前年から準備していたものを発行したのでしょう。
そのように判断する理由は、この年、各学校の生徒による自治組織はすべて解体し、学校長をトップとする「報国団」に編成するよう、国からの支持が出ていたからです。この歌集の選曲や見開きのイラストは、まだ自由な雰囲気が残っており「報国団」編成前のものと思われるからです。
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こちらは、長野県北佐久農学校(現・佐久平総合技術高校)報国団による「行軍歌」歌集です。報国団ですから、1942年以降のものです。ただ、歌自体はそんなに新しいものが入っていないので、同年ぐらいに作ったものでしょう。
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この「行軍歌」には「抜刀隊」が選ばれています。陸軍行進曲であり、学徒出陣の時にも演奏された曲で、行軍のためには良いとされたのでしょう。現在の陸上自衛隊の行進曲にもなっていますが、中の人は、それを是とできないのです。それは、この歌詞を見れば分かるかと思いますが、西南戦争当時、西郷隆盛の軍勢を田原坂で押し返すため、元士族の多い警視隊から刀の使い手を選りすぐったのが抜刀隊であり、天皇に歯向かう西郷軍をやっつけろという、内戦の歌であり、天皇の権威を守るための歌なのです。それを継続して使っていることに、とても違和感を感じるのです。
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最後に、長野県赤穂町(現・駒ケ根市)の赤穂青年学校で作った「愛国小歌集」。こちらも「大詔奉戴日の歌」「大東亜決戦の歌」があるので、1942年以降のものです。校歌は最後の方に来るのも、諏訪中の歌集との比較でみると、考えさせられるものがあります。
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ところで、最初に紹介した伊那町青年会・伊那町女子青年団の歌集と、赤穂青年学校の歌集には、当時から歌われている長野県歌「信濃の国」がそれぞれ収録されていました。現在でも、県歌として親しまれ、中の人もいくらかは歌えるというものです。このあたりは、郷土への思い、人間らしさを感じるところです。
軍歌を再び常のごとく歌うような時代を避けるため、努力し、のびのびと好きな歌を歌っていける社会であり続けたいと思うのです。
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