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戦争は、伝統的な酒造りもめちゃくちゃにしていった

 1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件に端を発する日中戦争の遂行に心血を注ぐ軍と政府のため、臣民の生活は次々に圧迫されていきます。嗜好品であるお酒、特に日本酒も、その例外ではありませんでした。伝統的な酒造りは、戦争のため破壊され、戦後まで日本酒の質の低下を引いていくことになります。

 まず、やってきたのは増税でした。戦費を捻出するための間接税の増税がおこなわれました。1938(昭和13)年4月1日、支那事変特別税法、臨時租税措置法改正、麦酒税法改正などが、国家総動員法と同時に公布されます。当時の信濃毎日新聞は「明日1日からは一寸一杯は勿論、煙草にマッチで火をつけてもすべて愛国税金が含まれ誰でも暴支膺懲の聖戦に参加」できるとします。一方でなぜか貴金属や宝石は税率が下がっており、庶民を狙い撃ちしています。

ビールも半ダースなんておちおち贈れない

 同年4月26日の信濃毎日新聞は「酒と煙草 税金の味がする」と見出しをつけて「酒は一升につき50銭の税金、ビールは1本2銭の値上がりを発表したばかりなのに8月1日から更に1銭上がるというから、去年まで1本30銭で飲めたビールも40銭となるし、ジョッキ1杯55銭が58銭、泡よくば60銭にもなろうとしている」と急激な価格上昇を描写。外国産のウイスキーなどは輸入禁止で、ストック品は大幅値上げで「カフェーやバーで高いお金で飲まされる洋酒はいづれも国産アルコールに得体の知れない色と香をつけたものと言ってよい」と世知辛い。
 それでも、同年はまだ程度の良い日本酒を入手でき、三越の年末贈答カタログにも、各種の酒が出されています。

三越の年末カタログ。日本酒も洋酒もある
銘柄もさまざまなものを用意できた

 これが1939(昭和14)年になると、様相が変わります。まずは米穀消費抑制による減産割当と、インフレ景気による消費増大で日本酒の手持が減ってきたところで、11月8日、酒造米を国内と朝鮮で合わせて4割減とする方針が、企画院と大蔵省の間でまとまります。そして政府としては闇取引を抑える為、節酒運動、税制改正(値上げ)による需要抑制、公定価格引き上げなどを行うとします。消費者としては痛い処置です。

 さあ、そうなると困るのは酒を商売としている人たちです。11月24日の信濃毎日新聞朝刊には「お一人様二本迄と〝酔い〟の停止令 おでん屋さん苦肉策」という記事が載ります。

「御酒は御一人様二本まで」の張り紙をしたおでん屋(1939年11月24日付信濃毎日新聞)

 著作権切れで記事を転載します(以下転載)
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 年末年始の酒の需要期を控えて酒の動きの一番はげしいのは十一月下旬から十二月上旬へかけての一カ月間であるが、この十一月末には本年度の酒造米高が四割八分減に制限される。この酒制限のトップを切って長野市内の某おでん屋さんが「お一人様二本まで」の張り札を出して制限売りを始めた。上戸党にとって痛いおふれであるが、長野市及び上水内郡下の顧客と卸売を一手に引き受けている市内某酒造業者の内幕をみると昨年の造石三千石が本年は一千五百石となり昨年七、八百石からの他県の移入酒も本年はどこでもお断りの状態で、この暮れから正月へかけてお神酒も昨年五百石の売れ行きに対し今年はこの半分の二百五十石しかないありさま。婚礼シーズンの今日この頃、「何はなくとも酒だけは」といった亭主役も「酒はこれ位でどうぞお料理にお箸を」と言わなければならなくなった。(転載終わり)
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 ちなみに、こうして酒の節約を図ったものの、後日、下戸の仲間と2人で来た客が2本ずつ頼むものの、飲むのは1人だけという奇策に合ったという後日談も載っていました。

 そして、物不足が過ぎると悪いことを考えるやつも出てくるというもの。同年12月20日付信濃毎日新聞夕刊には「嘘かほんとか酔わない酒」という見出しの記事が登場します。長野県伊那地方は極度の酒不足から、中間業者や飲食料理店でも全然酔わない酒を売る向きが多いということで、清酒に多量の水を加えて売っているのが多いが「明らかに詐欺的行為」とし、警察や税務署の取締りを期待しているとの内容でした。
 23日付夕刊にも長野県更埴地方では、人が集まると決まって近頃の酒が「どうも水っぽい」「酔いが回らない」と皆がこぼすようになっていて、業者がアルコール度数を調整するために認められている以上に水で薄めるということがあちこちで広がっていた様子です。また、同じ紙面には長野県中野町(現・中野市)で「清酒売り切れ」と張り紙をする酒屋が目立ってきたとか。中野税務署管内では移入も含め一万石だった昨年に比べ醸造三割減と移入ストップでようやく五千石と半分になっていました。これは大変です。

 さて、さすがに水を多量に入れた酒の話題が増えてきたので、1940(昭和15)年1月15日の信濃毎日新聞によると、飯田税務署が酒払底値段暴騰の折柄、販売している酒を調べたところ、多量の水を投入した不良品を販売している傾向が多いことが判明。警告し自粛を促したが、なおらなければ封印営業停止という方針を打ち出します。
 一方、同じ紙面では酒不足から事実上の廃業に追い込まれた業者が上田税務署管内では目立つとあり、諏訪地方でも蔵出しがほぼ半減したと、長野県全域で酒の出回りが減っている状態が顕著になってきました。

 そして、相変わらず水で薄めた酒も出回っているようで下伊那地方では「酒が水の中に浮いている」「出ると冷め」といった言葉が流行しているとか。酒屋も客もそれを分かったうえで「最初は水っぽい酒でチト景気をつけたよ、終わり際になってから例の水っぽい酒に焼酎を割って飲ませる術が用いられている」(1月16日信濃毎日新聞夕刊)という状態です。そんな中、コメの代わりに芋と、泡盛を仕入れて出す専門のバーも登場しているとか。

 そんな水酒が半ば公認状態になっている中、長野県は規定以上の水で薄めたものは不製品と断定し、近く厳重取締りをすることになったと2月18日の信濃毎日新聞が伝えます。

長野県も「水酒」取締りに動き出す

 2月21日の紙面では、長野警察署がとうとう280軒の店先に出動して店の酒を詰めて引き上げ、長野県衛生試験所の応援で検査したところ「酒っぽい水」が多かったとし、引き続き厳重に取り締まるとしています。このころの酒を表す言葉が同じ紙面では「酔わぬ水酒」「女子供もがぶがぶ飲める」「金魚が5日も生きていた」「酒に水を割ったか、水に酒をたらしたか」といった状態。各地で同じころ一斉に取締り、経済違反事案とする方針を示しています。

押収した酒を並べた長野警察署(1940年2月21日信濃毎日新聞)

 そして2月23日の信濃毎日新聞では、水酒を数万円で販売したとして松本署が5人を検挙したほか、飯山署でも公定価格を破って等級をごまかしたうえ、水を混入していた小売商人が相当数いるとして、町議会議員も含め十数名を厳罰にするとしています。こうした検挙や調査が同年2月末まで紙面をにぎわせています。その結果、ようやく安い価格の酒が出回るようになったと3月7日の信濃毎日新聞は伝えています。一方で、こうした水で薄めた酒は防腐剤の効果も落ちているとして、夏に向けて県は警戒を緩めないとしています。まあ、酔わないだけならともかく、健康を悪化させてはいけません。

 そんな中、脚光を浴び始めたのが合成酒。大蔵省が大増産をさせることとなり、特に勤労階級へ配給割当の申請をすると5月30日の信濃毎日新聞夕刊に掲載されます。それまで、理研の合成酒もあるにはあったのですが、敬遠されていました。8月1日の同紙家庭欄で「お米不足から増産 合成酒の時代来る」と題して合成酒の紹介で、芋と糖類を発行させてアルコールを作り、各種の薬品を添加して完成と簡単に説明。製造高は最近まで年20万石だったところ、当局の要請で今年は50万石に達するとのこと。また、1929(昭和4)年の酒造法改正で一般酒造家の合成酒製造への転換も可能になったとのことです。

 その後、各地に合成酒へ転換する酒造所が表れていき、清酒の不足を補っていきます。それでも1942(昭和17)年、まだ「金魚酒」と称する薄いものが出ていたり「インチキ酒氾濫」との記事が出るくらいですから、化かし合いというのはきりがないものです。戦争の物資不足は伝統をつぶし、不毛な化かし合いを際限なくさせていったのです。


 

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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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