空襲に備えよとはさんざん言われましたが、物資不足の中では木、布、紙などで立ち向かうーいや、逃げた方が良い!
防空法によって、空襲時の消火活動は臣民の義務とされ、たとえ家族を疎開させても防火要因が残らねばならなかった大日本帝国の現実。与えられた装備は、貧弱なものばかりでした。
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例えばバケツ。ブリキでできたしっかりしたバケツなどは、模範訓練の時に使える程度。1940(昭和15)年12月19日の信濃毎日新聞には「出ました板のバケツ 『桶にあらず』の看板」の見出しで、「報国バケツ」の登場を報じています。これは本体は木で持ち手は通常のバケツと同じでしたが、ほどなく持ち手を竹で作ったバケツに変わります。木製バケツ作りは信州で盛んになって、1941(昭和16)年5月には「日の丸バケツ」となのった完全木製のバケツが登場、これがまた都会から注文が大量に寄せられる状況でした。
収蔵している木製バケツは、隙間がなく、ぴったりしたいい作りです。おそらく、桶などに使うため十分感想させてあった材木を使ったのでしょう。1942(昭和17)年2月には完全に木と竹のものが長野県篠ノ井町(現長野市)から売り出されています。この品も、そのころのものかもしれません。
参考までに、1940年10月の都内の防空訓練ではバケツ4個盗んだ男がつかまり懲役5月になったり、1941年4月には、長野県中野町(現中野市)で竹籠に紙を貼って柿渋を塗ったバケツを自作、明治時代に戻ったようでした。
乾燥不足の木で作られた防空バケツは、隙間がすぐ空いてしまう粗悪品になります。そうそう急には作れません。そこで登場したのが布バケツです。
今でも、アウトドア用品で使われている折りたたみバケツの元祖のようです。さて、水のほかに消火用に奨励されたのが砂。といってもスコップで運ぶのは急いでいるときには効率が悪い。そこで、砂を入れる容器がいろいろ作られます。こちらは紙製ですが、陶器製のものもありました。
あとは、古来の火たたき棒。これも有効な場合はありますが、とにかく作り方は「防空絵解き」に載っていました。
さて、武器はそろった。身を護る道具として、防空頭巾はよく知られています。ここではヘルメットもご紹介しましよう。金属製のものもありましたが、実は形だけのものも。収蔵していませんが、竹のヘルメットもありました。
ついでに、危急を知らせるメガホン。こちらもよく見ると紙製でした。
焼夷弾の雨に、木や紙や布で立ち向かう。これは、もう、負けている。それでも立ち向かわされた東京大空襲は10万人の死者という大被害を出しますが、その後の人的被害は原爆を除けばそこまで大被害にはなりませんでした。やはり、常識の勝利でしょう。
ところで、バケツ不足からバケツも1943(昭和18)年3月には切符制が導入されています。そして7月にはバケツの横流し、闇販売が発覚するという素早さでした。ついに木も不足してきて、1944(昭和19)年2月には長野県飯田市の業者が竹製バケツを考案しています。
ちなみに、最初に紹介した木製バケツ。山林が多く木工業の盛んだった長野県から、多数のバケツが出荷されたのは間違いありません。なにがしかのお役に立ったのならばーそれが戦後でもーありがたいことですが。