終戦詔書を掲載した信濃毎日新聞は1945年8月16日付だが15日に配布したもようー版違いで発行
先日、8月13日の長野空襲報道のところでも少し触れましたが、長野県の地方紙、信濃毎日新聞は1945年8月15日、普通に朝刊を配っていました。長野県は広く、鉄道に頼って配送していた時代であり、新聞の持ち分合同によって全県の家庭が信濃毎日しか読めなくなっていたので、遠くに配る分は早く印刷して発送しなければなりません。
おまけに8月15日付の新聞では、長野空襲の続報など、県民に知らせねばならないことが多いので、早く作った版は普通に朝刊で発送しています。そして東京で御前会議が終了し、各社に翌日の朝刊を昼に出すようにと指示され終戦の詔書が配られたのは夜も遅くなってから。信濃毎日新聞では、遅い版に「正午に重大放送」とトップに入れた版をつくり、普通に15日朝刊として配ったようです。
そして終戦の詔書が載った新聞は8月16日付で、当方では早版と遅版の2種類を入手しました。
一面の作りはみだしが変わった程度と少しの記事の入れ替えで大きな変化はありませんが、遅版には、16日朝刊を15日に繰り上げて配ったとのお断りが入っていました。
当時、紙などの供給事情はひっ迫していて、既に前年から夕刊は一斉に廃止させられていました。つまり、この16日付朝刊は、16日付の資材を使い、8月15日正午の放送に合わせて組み、かつての夕刊のようなイメージで午後、配達したのでしょう。早版はこのお断りを入れる余裕もなく、即席に作り上げたと思われます。特に裏面(このころ、新聞は2ページだけでした)には早版と遅版に大きな違いが出ています。
下2段は空白ですが、これは戦争遂行の広告を外した跡ではないかと推測します。「対空監視の勇士」の写真がそのまま載っており、全体を組み立てなおして作ったのではないと判断しました。偶然、というか、敗戦を予測して最小限の手直しで済むよう、あまり戦意高揚の記事を入れないようにして作った可能性があります。
遅版の2ページ目は、皇居に頭を下げる人たちの写真と、玉音放送を聴く県内各地の人たちの写真にさし変わっています。そして全体を組みなおして空白も消えています。
この皇居に頭を下げる人たちの写真は、撮影日時が入っていません。また、全員がちょうど頭を下げていてタイミングが良すぎます。おそらく同盟通信からの配信でしょうが、参考写真として事前に用意されたものと推測されます。
県民の写真は、放送を聴いているという場面説明があり、街頭に、県庁に、野に、とあり「十五日写す」と明記してありました。「野」で放送を聴けるのか、は疑問があり、やらせの可能性はありますが、ほかの2点は実際の場面と見ておかしくないでしょう。詔書放送を受けて、知事や内相の談話が入っており、大村知事は「相励まして精進せん」との見出しで談話を紹介。内相は「承詔必謹 国土培へ」の見出しで天皇の詔書の意思を汲むよう、促しています。
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この15日のあわただしい報道が終わった後、本来発行するはずの16日朝刊用資材はありません。食い込むわけにはいかないので、16日には長野県内に新聞は配られなかったでしょう。さまざまな情報の錯綜、配達網の問題などから、こうした苦肉の策が生まれたようです。それは、当時の人的物的資源の限界を今に伝えているようにも思えます。