社会の隅っこで感じる大きなしあわせ
ごく軽度の強迫症は残ってるのかもしれない
不安で不安でたまらなくなって
それだけを考えてしまって
何度も何度も確認したくなる
あの頃に比べたら
時々現れるそれは
とってもとっても軽度で
そう呼ぶのも
ふさわしくないくらい微細な心の動き。
だけど
とっても不安になって
確認したくなった
もちろん確認と同時に恐怖も浮かぶ。
確認がとれなかったらどうしよう、と。
小さく想像して
耐えられないことを悟る
それを受け入れて生きていけるメンタルを
私はまだ持ち合わせていないんだ。
昔と比べたら
比べ物にならないくらい
きっと強くなった
あの頃なかった
客観的に
今の自分の状態を把握する視点と
相手のことを考えられる余裕が存在してるから。
だけど
所詮それは過去の自分と比べて、だ
元がひ弱すぎることを忘れていた。
過去の自分と比べて
いくらか強くなれた私も
隣の人が乗り越えられることを
乗り越えられる力はまだ持ち合わせていない
想像した現実を
実際に受け入れて生きていくことは
できそうもない
でもなんとか
この出会ったことのない現実が起こる
嫌な想像を乗り越えたくて
いつものように
深く息を吐いて
望んで
なにを信じたいかを肚で決めて
そっと目を閉じた
ーーーーー
目が覚めると
澄んだ空気を感じる
ちゃんと新しい朝が訪れているようだ
そっと自分の中だけで確認したけど
現実は変わってない
うっすらと不安はよぎったけど
深夜のそれとは濃さがちがうのを感じた
いつも通りの朝を始める。
日々のルーティンというものは
私を落ち着かせてくれるからありがたい
ひと通り
早朝のルーティンを終わらせて
またそっと自分の中だけの確認をする
ーーもうこの時間ならいいかな
深夜の重たい不安はもうないけれど
確認したいという気持ちの重さも
昨日と質が変わってるから
聞いてみても大丈夫そうな気がした
相手が非日常を感じないような
そうっと相手の日常に溶け込むような
ふわっとした確認を送信する
音にならない2文字が目に入る
そしてすぐに反応が言葉で流れてきた
大丈夫だった。
出会ったことがない現実は
今回も起こらなかった。
さて、
それだけで
涙を流してしまう人がいるって
信じられるだろうか。
それだけで
大きなしあわせを感じてしまう人がいるって
馬鹿らしいと思うだろうか。
こんなに具体的に
話したことはないけれど
どうしようもなく怖いものが
たくさんある私を説明したとき
だけど
1日の終わりに毎晩
大きなしあわせと感謝が溢れてくることを
素直に話すと
繊細な世界とは
真逆の世界の住人の口から
「それはすごくしあわせだね」
と言葉がこぼれ落ちた。
文字で見ると邪気を感じるそれに
音で聞いたとき一切の邪気がなく
不思議と違和感がなかった。
私もそう思う。
この世界で生きるのは
すごく大変で
不特定多数の人に
分かってもらおうとしたいとか
しようとかそんなつもりはないけれど
私はすごくしあわせだ。
大きな恐怖を感じたあと
深い安堵の向こうに広がるのは
いつも奇跡の中で存在してることへの感謝と
それを感じられる大きなしあわせ。
今日も社会の隅っこで感じる
大きなしあわせ
心の底から思ってる
きみが生きてくれているだけで
私はしあわせ
大好きなアーティストが
昔行ったライブのMCで
しあわせはサウナのようだと
笑って話していたのを思い出す。
案外、そうなのかもしれないな
"自分と真っ直ぐ向き合うこと" でより満たされた日々を送れるようなヒントになったらとこれまでの研究を言語化して公開を始めました ♔ 繊細で不器用で生きるのが難しい、そんなふうな私でもひたむきに今を生きてる…そんなことを表現できたらなと思ってますꪔ̤̫