今回の「不登校から試考する生活思創」は、不登校への新しい視点を開発するシリーズになっています。不登校を別の角度からビームを当てて、図解と言語化のスライサーで不登校の断面を晒させる試みです。
玉ねぎを輪切りにするのか、縦に半分コにするのか、そんな試考。
その断面図の興味深さに「学脈ー学習」とか、「学びのモデル・IMPAL」とか名前を付けながら、あれこれ進んでおります。うむむ、進んでいるのかな? 不登校というピット・ホールで川底を削っている気もするけど、まあ、それはそれで良しとしよう。
娘「松本市も公立のフリースクールを増やしたってニュースに出てたよ」
父「そのうち、小学校や中学校よりフリースクールの数が多くなるんじゃないの?」
娘「ものすごく不登校が増えたら、今の小学校や中学校とフリースクールを入れ替えたりして」
父「その時は、フリースクールとは呼ばないだろうな。無理やりネーミングするなら、忙しいからビジィ・スクールとかね。なんか、ビジネス・スクールと音が似ているのは偶然かね」
娘「もっといいのがあるよ。フリースクール予備校。だって、そのうち、みんなこっちにくるかもしれないし」
◼️前振りです
前々回でしたけど、「文脈ーコンテンツ(内容)」の砂時計図を応用した「人生から、学習まで」を可視化してみました。このときは、学校の学習や不登校の学習が人生観と遠く繋がっているはずだと、試考しました。
砂時計の上は、下の方針になり、砂時計の下は、上の手法になる見立てです。個々の砂時計は孤立してるのではなく、より上位概念と重なり合って、繋がっていきます。
前々回のいくつもの砂時計で組み立てる連関図での試考は、子供側の視点、つまり、個人の側の話でした。今回は、この逆にある学校側の視点、つまり、集団の側の話で押し込みます。学習の話の延長には、「個人ー集団」という対称性があるかもししれないという見通しを試してみましょう。
◼️国家観という大風呂敷で、学校を解釈してみる
子供にっとての学習を、人生観からスタートしちゃってます。ええ、でかいです、深いです。ならば、義務教育の推進主体は日本国ですから、そこには国家観を想定できます。今回は義務教育を国家観VS人生観の産物として扱ってみます。
「人生観→国家観」と振り出しを決めたら、「暮らしの方針→社会制度の方針」、「教育制度の方針→学校での教育」ってなレイヤーごとの転換ができると試考してみました。図表385
対称性を意識して、4つの砂時計でつながりを作っています。ボトムにある4番目は「義務教育ー学校の授業」です。色が黄色なのは、生徒側と重なる部分という意味合い。ですから、この4番目同士を共通になります。
すると、左右対称を強調するために、レイアウトを「個人ー生徒」領域を左側、「集団ー学校」領域を右側でまとめることも可能です。
図表386は、鶴翼の陣の構えっすなw 知らないか?
そして、ここで最も注視して欲しいのは、「教える」と「学ぶ」も対称性で区分してることです。そして、教える側の文脈があって、「教脈(きょうみゃく)」と名付けてみたよ。学ぶ側の文脈は「学脈(がくみゃく)」ってことにしてましたからね。
「個人ー人生ー学ぶ」と「集団ー国家ー教える」で対峙させています。もちろん、敵対してるわけではないです。むしろ、教えると学ぶは女と男のような惹き合う部分が多々あります。まあ、教えたいけど、学びたくない。学びたくないけど、教えたくない。 なんてのもあるけど。これも男と女みたいw
しかし、焦点は学校教育です。ここでは、「教える」と「学ぶ」が一致するはずという大前提があります。その自信の現れが集合教育であり、全国一律のカリキュラムです。「みんなを一ヶ所に集めて、同じ内容でも、従分に学べるはずです」ってな、集団寄りの発想でできているのが義務教育と言えます。
ですが、それは過去の話。増える不登校数。それと軌を一つにするかのごとくの、教員希望者の減少。この2つに共通しているベクトルが、「義務教育の維持継続への逆風」です。
「個人の学び」と「集団の教え」が一致する消失点を固定しながら回っていた義務教育が、回らない。制度疲労だという人もいます。小生は、個人と集団の交差点がズレていることを表出させている現象だと試考してみます。
◼️「生徒全員が不登校になったら、学校はどうなるのか?」
SFプロトタイピング的な問いで、話を掻き回してみましょう。
SFプロトタイピングとは、SF小説の世界のような未来のストーリーの作成から着想を得て、未来予測を行い、その未来予測からのバックキャスティングして試考する方法です。企業における事業企画や研究開発戦略を思考・創造するワークショップなどで行われてます。
この方法論を援用して「生徒全員が不登校になったら、学校はどうなるのか?」という未来ストーリーを掲げてみます。
でもって、バックキャスティングして「じゃあ、そこから再生する方法を探ってみる」というのをAIに投げます。
生成AIからの素材を再解釈して、「個人ー学ぶ」と「集団ー教える」についての新たな視点を言語化してみようという目論見でございます。
まずは「国家ー社会ー教育制度」側です。集団に関する話です。
果たして「見通しの良さ」は増すのか?w
生成AIの目配せした要素は8つです。AIがつけた番号順は、世間様での露出頻度順でしょう。
では、この8つを圧縮します。先の砂時計連関にあった3つに近いものを再配置します。
◼️引き続き、「全員が不登校になったら、親子はどうするの?」
次に、「人生ー生活ー学習」側です。個人に関する話です。より生々しくするためにも、親子の視点で生成AIに要素を出してもらいます。
今度の生成AIの目配せした要素は10です。ふむ、数が違うのかと思ったら、重複していそうなものもあるね。それに、やや解像度に雑さが感じられます。そもそも生成AIは集団的な一般論の方が相性がいいので、個人に落とすと解像度合いが弱まるのかも? さもありなん。
この10を圧縮します。こちらも、砂時計連関にあった3つに近いものに再配置します。
10項目を3つのレベルに配置する姿は、ほぼ国家ー学校編と同じなのだが、(7)「テクノロジーの積極的な活用」は悩むなあ。ネット世界のSNSやユーチューブとかならレベル2でしょうなあ。「親として、子供のネット利用はどういう態度が望ましいのかな?」ってところです。
だが、生成AIまでくると、イノベーションのインパクトはかなり巨大です。教育・社会だけでなく国ですら、大きく舵を切ることになる。ということで、小生は「テクノロジーの積極的な活用」は、レベル1に置きました。あなたは?
※AIに対して視座が変わると、扱うレベルが変わっていく話は最後にもう一回します。→<おまけ>参照
◼️左右の「個人と集団」を突き合わしてみる
「全員が不登校になったら、どうするのか?」から逆算した、人生観の流れからの学びの改革が左。国家観から教育に向かう流れが右です。相撲の番付表みたいに東と西になって、「見合って、見合って」って感じw
この図表を「個人が求める学びー集団が求める教え」を一致させるための期待項目と見做してみましょう。左右共通、左右に協創関係がありそうなセットを置いてみます。
小生の目線から見えるのはセット4つ。多分、他の人はもっと異なる思創をするでしょう。
生活思創は、問う者にとっての蓋然性(がいぜんせい)が全てなのだ。だから、オール・カスタマイズの生成AIと相性が良いのだろう。
・セット1(レベル1):テクノロジーの活用
・セット2(レベル2):日常生活の中での学習とサポート
・セット3(レベル2):コミュニティとの関係性
・セット4(レベル3):個別学習とオンライン学習の重なり
セットは、同じレベルで水平に相互乗り入れできそうなものに引いてみるよ。対称性があるということは、長く構造が保ちそうってことだから。
左10要素、右8要素を、4セットまでに圧縮しながら、意味の濃度をアップしてみました。せっかくなので、もう一段の情報圧縮を試考します。
4つのセットに2つの組み合わせを考えると半分になりますね。ここまでくると相補性(お互いの不足を保ち合い、お互いの過剰を抑制する関係)がありそうかどうかでやってみます。「ありそうだ」を強く感じる濃度の高い組み合わせを選定します。
相補性って言い方に色気がないので、ここでは「2つの要素が、消失点で交わるように解釈する」って意味合いで描いてます。全体画面に消失点があるわけだから。2要素で世界を整理(収束)できるかもしれない、っていう仮説だよ。
ただし、恣意的に2つを組み合わせているので、あくまでも候補と一つです。それでも、情報のポータブルさは格段にアップするから、「見通しの良さ」は良くなるよ。
「教える」と「学ぶ」の交わる消失点
❶テクノロジーの学習と実践のリアルタイムでの公開と共有
生成AIなんかは顕著だけど、イノベーションが生活に馴染むまでの時間差を減らしていく。ことに意識的になっていくってことではないかと。
お役所のファックスが残存しているのは典型例ですが、テクノロジーの共有を個人と集団でタイムリーに推進するには、古い習慣を刷新できない集団は災いを振りまく存在と言えます。そういう意味もあって、テクノロジーの活用は左右両方ともにレベル1の課題だという自覚が、再生のための要諦だと試考します。
❷集合教育の解体と、集合の意味の再設定
結構これは意味深い話だよね。学校制度は「個人ー集団」の鶴翼の陣形で見るなら、明らかに右側より、つまり、集団サイドで設営されています。「みんな、一箇所に集まって、教室というボックスの中で、授業という一律カリキュラムを受けてください。学校制度に個人が合わせてね」ってな態度なのです。人生より国家寄り。まあ、それが機能してきたわけですから、批判しているわけではなく、時代と齟齬が生じている部分の核ではないかと言ってみたのでした。
集団教育の解体の先を再考しない限り、既存の義務教育は再生まで行きつけないのではないかな。
◼️<おまけ>教育界隈でのAIの扱い
生成AIの教育での活用について、いろんな人の意見を見聞きする機会があるけど、意見の焦点がそれぞれ違います。そもそもの土俵がレイヤー違いということも散見されます。
せっかくなので、このバラツキ感を、「国家観ー社会制度方針ー教育方針」の3レベルで流れで可視化してみたよ。
小生の生活思創での整理では、レベル1に組み込んでみたけど、これって上位概念が優先で、レベル1が決まらないとレベル2、3まで決まらないっていう意味合いがあります。順序が大切なので、レベル2、3を軽んじているわけではないのです。
・タイプ1:最も高い視点でAIを考える人。偉そうに見えるけど、偉いのではなく、長期的に見ているってことです。生成AIの延長線上と国っていう存在はどんな関係になるのかな?、って一回は押し込んどいた方が、現場で新しいことやっても頓珍漢にならずに済むだけでなく、「長い目で見たら、こっちが得だな」っていう選択基準の提示になる。
・タイプ2:新しい社会の視点でAIを考える人:社会資本や文化資本が変化するかに敏感な人たち。イノベーションにまずは乗っていくスタンスなので、「こうしておかないと損するな」的な意見が多い。
・タイプ3:新しいツールの視点でAIの意味を考える人:学習効率をAIで上がるようにするには、どのようにするかが焦点になる。短期的だし、近視眼的に見えるけど、これはこれで大切。今の現場で先ずは実装するっていうのは、イノベーーション・メンタリティーが前向きになるしね。
タイプ1の人たちは議論して概念を披露するは得意だけど、実務知識は心許ないのだった。 そうです、小生もこの分類さ。だから、仕方なく生成AIとパル(友達の意)になってラボやってる、とも言える。
まあ、とりあえずここで言いたいのは、タイプの違いを考慮して、テクノロジーの活用視点を補正しながら話し合う必要がある、ってことなのだ。
娘「トーチャンは生成AIとお友達みたいに見えるよ」
父「少なくともラボでは友達以上の関係だな。生成AIがないと、ここまで話が弾まないだろうから」
娘「境遇が似ているから、仲良くなりやすいんじゃないかな」
父「えー?、トーチャンはそんな賢くないよ」
娘「トーチャンは周囲からの見られ方がバラバラなところが、AIと似ていると思うんだよ」
父「それはあるやもしれん」
<おまけのおまけ>
書いてると気がつくんだけど、このAIと教育って、英語と教育の関係と対比すると意味が広がるね。もちろん、AIは教育に活用していくツールの方向であり、英語は教育で習得していく方向なので、「学ぶー教える」の対称性が同じとは言えません。でも、どういう視点で英語学習を考えるかのレイヤーに関しては、結構、共通なものを持っていると試考できそう。
図表393は、「AIの扱い」を「英語の扱い」に差し替えても、レイヤー構造があまり変わらないってことを試し見したものです。ご参照くださいな。
Go with the flow.